人を幸せにする人になろう

依羅池の機能

◆もうさんざん明らかにされているのかもしれませんが、読んだことはありません。大阪の歴史演 習というので、社会人で住吉区のガイドをされている方がおり、セミプロみたいな人です。その方が依羅池のことを調べており、聞かれても、むこうの方が勉強していて、答えられないという悲しい現実。が、7世紀の開発とか、この地域の条里ともかかわり、関心はある。で、そこに大阪市立大学も乗っている。我孫子の台地。タンボにはしにくい。で台地上で地形がよくわからん。
◆いつも使う大阪府1961は、大阪市域のこのへんは区画整理がされてしまっていて、条里は消えている。やはり明治の仮製図に立ち戻る。この地図、等高線をかなり明瞭に入れてくれているので、それをなぞり、色20%乗算で重ねて高まりを表現する。それと水田域が明示されているので、それを緑でと。
◆こうして考えると、よさみ池は、西除川の西側、赤の破線のところに水路を通さないと、その間は耕地化できません(灌漑域A、上)。それと、池から細江川につながる部分の水田域(B)。メインはAの方かと思う。西除川自身もつけかえている可能性があると思いますが、そういうことが言われているかどうかは不明。が地形的には、西除川の東側に谷筋が入るので、本来であれば、そこを流れているのだろうと。それをやや西に振った可能性はあるように思います。しかしそれだけではまだダメで、A域を灌漑するには、西除川の上流部からさらに高いところに水を引き、よさみ池を作り、そこから水路を引かないとAは無理。A域を灌漑するために、よさみ池を作ったのかな、と。まあ、そんな風に思います。
◆西除川から水路をさらに西に引き、池に引水していることはわかるのだが、池から出て行く水の水路については、神社蔵の絵図には表されていない。しかも大和川が18世紀初頭に付け替えられ、新大和川下流側の水利は一新され、西除川筋の水利も、村が離脱していくとのことで、大和川付け替え以前の水利関係は、江戸時代の中で不明瞭になってしまっているのかもしれません。とにかく、よさみ池、近世史の問題でもあるが、古代史の話である。崇神朝に書いてあっても推古朝がほんまだろうと、そういう議論はあるけれども、で実際に何を目的にして造営されたのか、そういう話はこうした作業をしないとわからないのである。がしかし、近世に改変されているので、それ以前の姿を復元するのも一苦労。けっこう読まないといけないし。まだ序の口。が、基本的機能の骨格はこれでいいのではないか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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