人を幸せにする人になろう

和泉市合宿 芦部町

◆秋分の日あけ、24・25・26日は和泉市合宿でした。今年は今在家村、戦後、名称を芦部町に変更 した村。古代坂本郷。根使主後裔が6世紀に開発した中心部である。古代坂本郷は槇尾川の南にも広がるが、槇尾川北岸は信太山丘陵を背後にした東西に細長い場所。西は上條郷(府中)、東は池田郷。条里大区画36町のちょうど3単位分がならぶ。
◆話は変わるが、条里。坪並みの番号があるから初めて大区画を線引きすることができる。もし坪名の残存地名がなかったら、109mスクエアがえんえんと続き、区切りがあるように見えない。問題意識としては、条里が施工された7世紀後半に、大区画があったのか、という問題。結論はあった。中国のせんぱく制には、いくつかのククリがあり、畦や溝の大きさを差をつけて決めてある。当然、それを学ぶだろう。発掘遺構でも大畦畔はある。そして、和泉平野の郷は、たいがい大区画を基準に区切っている。言いたいことは、109m区画がある、そこに○条とか○里といった数詞をあてる時に、どこで区切ろうかというものではなく、施工時点である、ということだ。これ、考えてみれば、未証明じゃないかと思うのだ。
◆話を戻し、坂本郷の槇尾川北岸には3区画がある。とはいえ、川まで狭いので、6町の奥行きはないのだが。で、芦部町、近世村今在家村の村境は、この3区画のちょうど真ん中の大区画なのである。う~む。におう。
◆今在家村ができたのは、その名の通り新しいそう。中世後期、16世紀くらいまでしか、しかも伝承でしかさかのぼれない。が、条里大区画の3単位が、なんらかの生産単位であったというのは、これ中世とかの話ではないだろうと思うのだ。古代ちゃう?。岸和田市史を読んでいると、36町すなわち固有名里をひとつの単位として村がある、というのは、歴史地理では前々から言われているようで、そんなことが書いてあり、岸和田の村のあるところは、それに見合うというような話だった。芦部町でそんなことを考えました。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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