人を幸せにする人になろう

権現山の鏡にはヒモが残っていた

◆こないだの森先生の抜き刷り、三角縁神獣鏡は弥生後期後半に伊都国では同笵の大型鏡を多数作る技20d2921e.JPG術はあり、「その技術を母体にして、ヤマトへ移ってきた、九州勢力が新たに作り出した」もの。どうやら銅鐸の技術系譜を引いていると考え、また「母体」との表現からすると、東遷の頃に呉からの渡来系工人も加わって、古墳時代成立時に新たにヤマトで呪具・葬具として生み出された、との理解らしい。
◆三角縁神獣鏡の鈕は「鋳ばなし」であるというのと、棺内に持ち込まれず大事な鏡じゃない、というのをやはり強調する。むろん中国から出ないことがベースにはあるが、中国鏡はちゃんと鈕孔を研磨しヒモを通す、大事にされてない、だから中国鏡ではありえないと。
◆この実物をよく観察しない、出土状況から学ばない、というのが京大批判の点。だが、例にあがっているものは、紫金山。倭製で、4世紀第2四半期でしょ、三角縁神獣鏡が大きな役割を果たすのは中国王朝健在時の3世紀後半だ。もうひとつ。和泉黄金塚。モノは中国鏡だが、前期末の古墳でしょ。
◆黒塚も上がっていた。やっぱり棺内は画文帯神獣鏡だ。三角縁神獣鏡はすべて棺外だと。それはそうですね。だけど、紫金山のように小口に重ねられていたわけでもなく、黄金塚のように粘土に塗り込めていたわけではない。整然とコの字形に棺を囲む。もちろん、権現山のみならず、3世紀後半の中国製三角縁神獣鏡の多くは棺内に持ち込まれている。
◆あとは鈕孔の「鋳ばなし」論。そうなんでしょうね。無頓着にきれいにしてしまったらあかんわな(中子の土がそのままのものがあるはずとの指摘はもっとも)。だが、オレは権現山の整理で岡大で図面を書いていたとき、何号鏡だったか、いちばんいい2号鏡だったか、鈕孔に繊維が残っていたのを覚えている。もっと意識をもつべきでしたね。布目先生に鑑定してもらうべきだろうし、そういう目でほかの鏡も点検すべきですね。だが、たぶん、報告の時に記述もしなかった。自分の担当の2面ではなかったのだが。それはあかんわな。ちゃんと報告しなきゃ。実物は小袋に入れたような気もするが定かではない。たぶん、わからなくなっているのでは?
◆ヒモありましたよ、と森先生への手紙に書いた。ちゃんと報告していない、機会があれば紹介するとも。あの2号鏡は古段階。「鋳ばなし」というのも多くの指摘があるからそうなんだろうけど、ちゃんと観察し、また時期別に見れば、きっと、古いモノはちゃんとしていて、新しくなれば「鋳ばなし」になるんでは。卒論のテーマにはなるかもしれん。なので、三角縁神獣鏡を、さいしょっから、だめなやつというのは問題である。データにもとづき実証的な反論はできないが、きっと、森先生の指摘2点はクリアできるはず。

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雲楽
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男性
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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