人を幸せにする人になろう

藤ノ木古墳

◆同じことの繰り返しではある。須恵器がある。MT85というにはしんどいのでしょうか。N先生は無蓋高杯の下の透かしが三角で、カキ目をまわすことに古相を指摘する。また、楔形大刀は560年前後という。倭風の大刀しかもたないというのも意味深長かもしれません。王権からの下賜品である楔形大刀のみで、大伴からの単龍大刀、蘇我からの双龍大刀をもたないことは、やつらから独立した存在であることを思わせます。とくに136㎝の破格の大刀2振りをもつ。馬具は何セット?。うち1組は鐘形ですよね。Uさんの論文を読まないといけないが、昔、O先生の論文を読んでいた限りでは、南塚など、TK10を中心とし、大型化した新し目として550年くらいというのは悪くはない。
◆そもそも天王山式の赤坂天王山が崇峻陵とすると殺害される592以前の石室で、580年代後半とみられる。藤木は穴穂部とすると587だ。たぶん若く、それまで墓を造っていないように思うが、まあ数年前に始めていたって構わない。つまり、白石先生の年代観でいくと、赤坂天王山とほぼ同時期の石室となる。それはありえね~、ということです。天王山式について崇峻とは決められないとし、被葬者が確実なのは牧野で、600年前後まで生きていたとみられるから天王山式を600年前後とすることでかわす。その論法に乗ったとしても、せいぜい10年ほどだろうし、藤木の石室と天王山式ではかなりの乖離がある。もひとついえば、藤木を天王山式に先行する平林式とするが、藤木と平林を比べても、藤木はより古い石室であるように思われるが。ともかく藤木が穴穂部というのは成立する余地がない。
◆やはり片袖から両袖への変化を含めた横穴式石室の編年を組まないといけません。早い時期は、いろんな系統もありうるのかもしれないが、そこは平林とか天王山以降で考えられているような主流の大型石室としては、今城塚は不明としても市尾墓山で代用でき、その頃からあるに違いなく、主たる系列はならべられるんとちゃうやろか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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