人を幸せにする人になろう

孝徳を評価すべき

◆日曜日は、土曜日の難波宮研の後始末をしたあと、孝徳のことをずっと調べることになり、さぼってしまいました。改新諸政策を、どのへんが考えていたかであるが、高向玄理やミンなど舒明朝の遣唐使の新知見をふまえ、年齢的にも孝徳を中心としたブレーンが形成されていたのではないか。カマタリは孝徳の指図で中大兄を利用したとも考えられる。とにかく、孝徳が傀儡で、中大兄が主役などという見方が、とくに根拠のない妄説なのであろう。作為的に人物像を描くことはありうるが、孝徳朝において、孝徳を貶めるなにものもなく、前もっての倉梯麻呂や石川麻呂との姻戚関係の構築の上に、ただちに左右大臣にする体制作り、諸政策でのリーダーシップなどが目立つ。まず、当時の国際情勢による情報戦のなかで、倭国の実態はビッビッドに知られるところであり、ウソをついてでも先進性をことさらに古くする理由はない。天智・天武、とくに天武を持ち上げるのなら、天武朝こそ起点のように歴史書をまとめればいいのである。しかし、同時代人のなかで孝徳朝、天智朝の画期性は、明々白々であって、ウソで塗り固めることはできない。
◆孝徳朝こそが、天智・天武もまたモデルとすべきものであったに違いない。孝徳晩年に中大兄は確かに飛鳥に戻ってしまったのかも知れない。そこに初めて、孝徳の失意も表明される。しかし百官がみな戻るということはおそらくなかったのであろうし、本当のところはわからないし、どうでもいい。いずれにしても斉明の土木工事のような失政として描かれるようなことも一切ない。むろん皇極だって、いいオバアチャンではないし、天智も意識がより高くなるであろうし、外交路線の対立など、意見のあわないこともありえたのかもしれないが、そこは、先代の晩年と新体制の発足にかかわる皇位継承期の話は、たぶんに作為性の働く部分であろう。
◆とにもかくにも、改新以来の政府のめざす孝徳が敷いたレールは、政権がかわろうとも目指すべきものであって、実際には人間がいて、人間関係が働きうるものであるとしても、歴史としては、めざすべき路線を一歩ずつ進めていくということに何ら変わりはないと思っている(白村江は確かにイレギュラーだが)。なので、飛鳥に戻ろうが、難波を離れて後岡本宮であろうが、それで急進的改革にブレーキがかかったとか、そんな風に考える必要はないと思う。

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雲楽
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60
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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