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2日、平福へ。

◆佐用の平福にでかける。以下、ウィキ。

赤茶色の土蔵と川屋敷が建ち並ぶ「川端風景」で有名な旧宿場町・在郷町。秋から冬の朝霧の名所 としても知られる。棚田百選に選ばれた乙大木谷も近い。
 室町時代は赤松氏の拠点で、江戸時代初期に築かれた利神城の城下町を起源とする。 一国一城令による利神城廃城のため城下町としての歴史は短かったが、陣屋や鳥取藩本陣が置かれる因幡街道最大の宿場町として発展した。また高瀬舟が坂越から千種川を遡って支流の佐用川の当地へ海産物などを運び入れたことで商業が隆盛、その1.2kmの区域の300戸余りの家の約8割に屋号がつく商人の町となった。
 昭和初期まで出雲街道・因幡街道および佐用の中心として繁栄していたが、鉄道が敷設されな かったため衰退しその地位を失った(1994年に漸く智頭急行が開通し平 福駅が設置された)。 往時の面影を伝える旧街道沿いにある連子窓と千本格子を持つ古い家並みと水運で賑わった佐用川沿いの石垣上の川座敷と土蔵群は、1983年に制定された佐用町歴史的環境保存条例の保存区域の指定を受けている。
 1349年、佐用川対岸の利神山(標高373m)に別所敦範が城(利神城)を築く。1578年、羽柴秀吉の中国攻めで山城落城。1601年、池田由之が利神山の利神城を近代城郭へと大改修し、現在の町並みの原型となる城下町の築造を開始する。1605年、利神城竣工。1615年、池田輝興が入封し平福藩が成立する。1631年、池田輝興が赤穂藩に転封し平福藩が廃藩、利神城廃城。1631年-1644年間、旗本松平康朗によって陣屋が建設される。

◆だそうである。この日は雪。歩いていると、旧田住家のところで、いまの持ち主が、地域興しで、貸し会場にし、庭を公開し、お茶も飲めるようにしており、さすがに正月はやっていなかったが、中に案内してくれる。またある一画では、佐用の名所を案内するところがあり、おじさん1人がやっているようで、いろんなチラシやガイドマップ、壁には写真を貼りだし、やっていて、しばらく話をする。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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