人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2022年11月28日、鈴鹿市富士山1号墳
◆2年目。昨年、一部検出された造り出しを、全面調査している。外側は肩が流れているが、墳丘側の基部はよく残っている。ほかにも2か所、そしてもう1箇所もこれから。墳丘長は判明しそうである。片側に造り出しをもつ帆立貝である。5世紀後半のようではあるが、前半目か後半目か、埴輪からの追求とともに、ばっちりの須恵器が出てくれるとうれしいのだが。
◆わりと定型的になった片側に造り出しをもつ帆立貝の印象。けっこう大きい。類例を集め、ならべてみたいもの。
◆わりと定型的になった片側に造り出しをもつ帆立貝の印象。けっこう大きい。類例を集め、ならべてみたいもの。
2022年11月24日、香芝市
◆今年から委員に委嘱され、はじめての会議でした。今年度、2つの古墳を調査し、このうち1基は着手中で、もう1基はこれから。まずは部屋で図面を見ながら会議、後半は現地。まず、最初のこれから着手のものは、大きくはないが前期の古墳で、非常によく残っている。要するに、見た目でも墳丘裾が明確なのである。馬見丘陵の縁部なのかな、花崗岩バイラン土で、昨年の調査では、墳端部では、葺石はないが削り出された墳丘斜面と、その外との傾斜変換がきれいに出ているとのこと。
◆もう1基は狐井稲荷古墳。これは大きい!。削り込まれ、集落が取り巻き、改変も大きいのであるが、しかし高さはあり、それほど低くなってはいないような印象も受ける。トレンチを見ると、下部は深く、なかなか掘るのが大変そう。またテラス面などが明確でないので、復元するにも、なかなかしんどそうではある。ひととり調査するにも時間がかかるのでは。これについては、測量図から読み取れるところを整理してみる必要がありそうだ。
◆もう1基は狐井稲荷古墳。これは大きい!。削り込まれ、集落が取り巻き、改変も大きいのであるが、しかし高さはあり、それほど低くなってはいないような印象も受ける。トレンチを見ると、下部は深く、なかなか掘るのが大変そう。またテラス面などが明確でないので、復元するにも、なかなかしんどそうではある。ひととり調査するにも時間がかかるのでは。これについては、測量図から読み取れるところを整理してみる必要がありそうだ。
2022年11月21日、京丹後
◆網野につき、歩いていって、会議の時間20分前に到着。さっそく現地に行き、会議室にもどって、次年度の整備工事その他について議論。教育長さんも、この間、ず~と参加しており、今回から整備後の活用を考えるため委員を3人増強し、活発な議論となる。会議は16時までと委員長が宣言し、それは大阪や奈良から来ているわれわれが16時代の汽車に乗るためなのだが、この日は奈良方面の委員が欠席し、わたしだけ(京都方面の委員は車)。会議が盛り上がっているので、続けてもらい、17時代に遅らせる。とはいえ、17時代といっても17:37で、福知山から大阪方面の特急はもうないとのこと。京都まで特急。近鉄経由で戻ると22:00。1日仕事ですね。
◆前方部コーナーの傷んでいるところについて、墳丘を補う盛土が進んでいる。古墳を作っている感覚である。かなりカッコよくなった。
2022年11月20日(日)、奈良あるき
◆朝、計画もなく出かけ、結崎で下 りる。駅前を出身のデザイナー?が住民の会議に出て作った、というのをラジオで聞いていたから。駅前に古墳があるではないか。そこから北に向かう。下ツ道は前に北上したので、その西側。だいたい佐保川に沿って北上し、最後はやはり大和郡山駅に出る。大和郡山のマチは大きいですね。西大寺に向かう。昼飯。
◆現地研究会スタート。まず西大寺。な~んにも知りませんでした。西大寺、むかしKさんの発掘現場に
◆それから北辺坊と条里との境界の話を聞く。北辺坊の街区と条里地割の説明があった。ここまでくるとまだ田んぼがあり、条坊街区と、その外の段差を見ることができた。
武烈そして継体
◆武烈が実在したことをT先生は繰り返し論じる(展示解説書『葛城の大王墓と太古の祈り』香芝市二上山博物館、2020)。そして武烈の傍丘磐杯丘陵が、狐井城山古墳であると。狐井城山古墳の考古学的追究はやっておらず、墳丘測量図ができたので、その面からの検討を含め、今後の課題である。武烈の実在と、その陵墓が狐井城山である可能性は高い。
◆で、隅田八幡人物画像鏡。503年とする。その時期で「曰十大王」とある倭国王について、山尾幸久は「ヲ(小)シ大王」と読み、「大脚」・「大為」・「大石」という名前が伝えられている仁賢の実名「オホ(大)シ」と対になるものとの見方を示す。播磨国から王位に就くのは「ヲシ王」であるが、兄弟という設定になり「オホシ王」が生み出された、との理解である。山尾の結論は、オケ(仁賢)・ヲケ(顕宗)の兄弟は実際には1人で、503年の「ヲシ大王」は「顕宗=仁賢」の治政とする(レキハク2018論文の山尾説の引用は不正確でした)。今はこれにしたがっておく。
◆日本書紀紀年では498年に仁賢が没し、499年に武烈が即位し、503年はその武烈在位中ということになっているが、実際には仁賢がまだ在位しているわけだ、
◆で、503年の仁賢在位中に桜井市押坂にいて鏡をプレゼントされた人物ヲフト王は、継体であるという山尾説にしたがう。継体在位は日本書紀紀年では25年で、古事記崩年干支から継体の実際の没年が527年とすると元年は503年になるので、隅田八幡人物画像鏡が贈られたのは、継体が即位したからであろうと考えた。現仁賢墓であるボケ山古墳が仁賢墓でおかしくなく、それは神聖王墓の系列。一方、継体は、おそらく執政王としての実力を期待されたのだろう。つまり、2王並立論からすれば、503年の神聖王仁賢在位時に、継体が執政王にかつがれたと説明できる(レキハク2018論文)。これはたぶんオリジナル。
◆で、なぜ503年かということを考えていなかったが、それは先代の執政王が没したからであり、それが武烈というのが、今回、到達した結論である。武烈は、489の執政王雄略の没後に執政王位を継承し、503年頃まで王であったということになる。
◆で、隅田八幡人物画像鏡。503年とする。その時期で「曰十大王」とある倭国王について、山尾幸久は「ヲ(小)シ大王」と読み、「大脚」・「大為」・「大石」という名前が伝えられている仁賢の実名「オホ(大)シ」と対になるものとの見方を示す。播磨国から王位に就くのは「ヲシ王」であるが、兄弟という設定になり「オホシ王」が生み出された、との理解である。山尾の結論は、オケ(仁賢)・ヲケ(顕宗)の兄弟は実際には1人で、503年の「ヲシ大王」は「顕宗=仁賢」の治政とする(レキハク2018論文の山尾説の引用は不正確でした)。今はこれにしたがっておく。
◆日本書紀紀年では498年に仁賢が没し、499年に武烈が即位し、503年はその武烈在位中ということになっているが、実際には仁賢がまだ在位しているわけだ、
◆で、503年の仁賢在位中に桜井市押坂にいて鏡をプレゼントされた人物ヲフト王は、継体であるという山尾説にしたがう。継体在位は日本書紀紀年では25年で、古事記崩年干支から継体の実際の没年が527年とすると元年は503年になるので、隅田八幡人物画像鏡が贈られたのは、継体が即位したからであろうと考えた。現仁賢墓であるボケ山古墳が仁賢墓でおかしくなく、それは神聖王墓の系列。一方、継体は、おそらく執政王としての実力を期待されたのだろう。つまり、2王並立論からすれば、503年の神聖王仁賢在位時に、継体が執政王にかつがれたと説明できる(レキハク2018論文)。これはたぶんオリジナル。
◆で、なぜ503年かということを考えていなかったが、それは先代の執政王が没したからであり、それが武烈というのが、今回、到達した結論である。武烈は、489の執政王雄略の没後に執政王位を継承し、503年頃まで王であったということになる。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
(06/16)
(06/16)
(06/16)
(06/16)
(06/16)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。