人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2022年10月29日、考古見学会
◆追手門学院総持寺キャンパス、すごいわ(写真)。儲かるんですね。太田廃寺跡はそのへり。段丘の段差が大きい。太田廃寺は個人住宅の下なので、まだ残ってるんでしょうね。看板が新しくなっています。茨木市、頑張っている。太田茶臼山古
◆それから茨木市に引き返し、紫金山と青松塚(青松のグーグルマップの位置は間違っています)。以前の警察病院、いまは豊泉家病院。古墳見学者にも配慮してくれているんでしょう、知っていれば行きやすい。が、うろうろ。
◆少し戻って、将軍塚と将軍山古墳の移築竪穴式石室。この移築石室、前は入れたようにも思うのですが、封鎖されている。追手門学院の学園祭でうるさい。
◆耳原古墳。帝人の研究所が解体され、いまは中に入れません。鼻擦古墳。この終末期方墳らしきもの、情報があまり出てこず、概要がよくわからない。調べてみないと。
◆海北塚(写真)。郡山宿本陣。これ国史跡なんですね。いまは公開を中止していました。
PR
2022年10月27日、五箇荘南部むらあるき7
◆そして長尾街道に出る(写真)。
◆長尾街道の南は蔵前。ここは河内国だが、ひとまわりし、長尾街道を西に戻り、途中、真言寺院を見て(華表神社の真南)、駐車場にたどりつき、大学に戻る。2時間半程度、楽しかった。
◆いま道路では、ここから大阪市だとか堺市だとかの表示はありますよね。ここから摂津国とか、河内国とか、和泉国とか、そういう表記もしてくれればいいのに、と思う。
2022年10月27日、五箇荘南部むらあるき2
◆以前、わずかな回数ながら自転車で大学に通勤した時、基本的に長尾街
◆ときはま線から西に入り、小豆塚まで行く。阪和線堺市駅の近くなんですね。ひとつまえの地図にあるように、なぜだが真ん中が空いていて、神社があり、コの字に集落がある。小豆塚はそこから西に離れたところ。
◆下の写真、どうも地図からすると用水路を埋めたものらしい。村中をあるいていた時も、この細道の先を横切った時、こういうのは赤線化か青線やで、里道や水路で公有地だから、こうして残るんやで、と言っていた。それが長尾街道に戻ってきたとき、続きがここに現れていたわけです。
2022年10月22日、天下茶屋
◆朝10時、天下茶屋駅集合で、2時間程度。詳しくはやめておきます。秀吉が茶を飲んだという天下茶屋、その屋敷は継承され、1945年まで残っていたが、戦災で焼けたという。いまは、ごく一画に記念スペースができている。なお、天下茶屋という地名は、昭和48年に岸里に変更になり、なくなったそうである。同時という説明だったか、実はかつての天下茶屋の北が、新たに天下茶屋という地名にするという、ややこしいことに。したがって、この写真の地点は、大阪市西成区岸里東2丁目である。天下茶屋跡は天下茶屋にはない!。
◆次回はコリアンタウン。
唐櫃山古墳の見学
◆月曜日、雨。で本日。研究会の前の時間、いつも作業時間にしているところで、学生を2人つれ て、午後、ピンポイントで見学に行って帰る。
◆道路沿いにあってながめることはあったが、初めて敷地内に立ち入る。ガタガタになっている墳丘や濠、堤などを丹念に追い、史跡整備をするための基本的な材料が着々と得られてい
ることに感銘を覚える。国府台地の地山の礫層はなかなかのものでした。で、旧宅敷地の一画に下ろされている石棺をシート越しにさわる。府道敷設時の調査は1955年なんですね。北野耕平担当だそうだ。図面や写真、遺物などは、いまどこにあるのかよく知らないが、もう藤井寺市に集めてほしいですね。墳丘長59mとある。図面を見たら、まあ60mといっても悪くはないのかもしれない。1歩1.5mで割ると40歩である。
◆米軍写真。市野山の外濠がよく残っていたんですね。びっくりだ。
◆道路沿いにあってながめることはあったが、初めて敷地内に立ち入る。ガタガタになっている墳丘や濠、堤などを丹念に追い、史跡整備をするための基本的な材料が着々と得られてい
◆米軍写真。市野山の外濠がよく残っていたんですね。びっくりだ。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
(06/16)
(06/16)
(06/16)
(06/16)
(06/16)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。