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人を幸せにする人になろう

2022年10月29日、考古見学会

◆後期、月1で予定は入れた。10月は予定決めが遅かったので、入れるとしたらここしかなく、参加 できない者もいたが、以前の高槻の続きで茨木市に行くことにする。930JR茨木駅集合。
◆追手門学院総持寺キャンパス、すごいわ(写真)。儲かるんですね。太田廃寺跡はそのへり。段丘の段差が大きい。太田廃寺は個人住宅の下なので、まだ残ってるんでしょうね。看板が新しくなっています。茨木市、頑張っている。太田茶臼山古 墳。うろうろする予定だったがやめる。前方部前面を拝んだので、それでよし。そこから、高槻の古墳。
◆それから茨木市に引き返し、紫金山と青松塚(青松のグーグルマップの位置は間違っています)。以前の警察病院、いまは豊泉家病院。古墳見学者にも配慮してくれているんでしょう、知っていれば行きやすい。が、うろうろ。
◆少し戻って、将軍塚と将軍山古墳の移築竪穴式石室。この移築石室、前は入れたようにも思うのですが、封鎖されている。追手門学院の学園祭でうるさい。
◆耳原古墳。帝人の研究所が解体され、いまは中に入れません。鼻擦古墳。この終末期方墳らしきもの、情報があまり出てこず、概要がよくわからない。調べてみないと。
◆海北塚(写真)。郡山宿本陣。これ国史跡なんですね。いまは公開を中止していました。
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2022年10月27日、五箇荘南部むらあるき7

◆北花田を味わい、東まで出る。溜池が埋め立てられ、東小学校と公園になっている。南の船堂に 向かうが、これが道がないわけです。北花田と船堂の間、古い地図では竹やぶになっている。戦後、それぞれの村側からのミニ開発が進み、いまは家が立ち込めているが、開発単位ごとに完結しているから、宅地街路は北花田側や船堂側には出れるのだが、連絡する道は計画されていないので行き止まりばかり。しばらくチャレンジしたがだめ。東に出て溜池埋め立て公園沿いに南に下り、ようやく船堂に入る。
◆そして長尾街道に出る(写真)。
◆長尾街道の南は蔵前。ここは河内国だが、ひとまわりし、長尾街道を西に戻り、途中、真言寺院を見て(華表神社の真南)、駐車場にたどりつき、大学に戻る。2時間半程度、楽しかった。
◆いま道路では、ここから大阪市だとか堺市だとかの表示はありますよね。ここから摂津国とか、河内国とか、和泉国とか、そういう表記もしてくれればいいのに、と思う。

2022年10月27日、五箇荘南部むらあるき6

◆神社前の東西道路を東に進む。大きな南北道路にさしかかる。これが、ときはま線か。こういう ことに感動する。いつも車で行きかっていた道路、それが1921年の地図に現れている、このひとかたまりのようになっている集落域のなかでも、北花田と船堂の西側には集落域は広がっておらず田になっていた。そこを利用して南北道路が通されたんだ。このコの字形に見える集落域は、ときはま線で分断され、北花田は道の東なんだ。
◆で東に進むと、でっかい家がある。これはおそろしく広いです。

2022年10月27日、五箇荘南部むらあるき5

◆奥本の奥までたどりつき、東に折れ、宮村、いまの宮本に向かう。センターに華表(かひょう) 神社がある。掃除していた方に話しかける。なんて読むんですか?。音読みです、カヒョウ神社です、と。

2022年10月27日、五箇荘南部むらあるき4

◆長尾街道に面して五箇荘小学校がある。まずは
新堀ムラ。資料に新堀城というのが出てくるそうな。平凡社の地名辞典の関係個所のコピーをもちながらだが、そう書いてある。
◆北上すると奥村だが、いまの地番表記では奥本になっている。歩いていくと、奥村に入っていて、どこまでは新堀か、どこからか奥村か戻って確かめたりするのも楽しい。三好さんという大きい家があり、三好(政権)の生き残りか、という話も出る。 

2022年10月27日、五箇荘南部むらあるき3

◆小豆塚から長尾街道を東に戻る。なんとか川。この先に大和川がある。つまりは大和川付け替え時に利用した、我孫子台地を開析 していた河道である。これなんとか川といったが、思い出せない。要するに、付け替え前の旧地形をこれまでいろいろ復元してきた時に、そのことを知ってはいたが、その川を見て感動。
◆その河口が榎津である。

2022年10月27日、五箇荘南部むらあるき2

◆まずは小豆塚(まめづか)。地図上での知識しかなかった。大学近辺でガソリンを入れないとい けない時、我孫子筋から続く「ときはま線」(というんですね)沿いのコスモを使っていた。で、北に戻ろうとすると、その先の東西道路の交差点を東に入り、Uターンしていた。これが長尾街道でした。そんなことも知らなかった・・・。
◆以前、わずかな回数ながら自転車で大学に通勤した時、基本的に長尾街 道を西に行ったが、あまみこそ神社のところで西除川沿いに西北上していたので、そこから先は知らなかったわけです。
◆ときはま線から西に入り、小豆塚まで行く。阪和線堺市駅の近くなんですね。ひとつまえの地図にあるように、なぜだが真ん中が空いていて、神社があり、コの字に集落がある。小豆塚はそこから西に離れたところ。
◆下の写真、どうも地図からすると用水路を埋めたものらしい。村中をあるいていた時も、この細道の先を横切った時、こういうのは赤線化か青線やで、里道や水路で公有地だから、こうして残るんやで、と言っていた。それが長尾街道に戻ってきたとき、続きがここに現れていたわけです。

2022年10月27日、五箇荘南部むらあるき

◆今年の大学院演習、履修生が少ないため、発表が1巡すると、外に行くことに。とはいえ、前期は 八幡市に行った1回だけだったが。この日、後期の発表が1巡したので、履修生である中世の院生のやっている五箇荘をめぐることにする。来年3月には、自分も博学講演会でこの地域のことをしゃべらないといけない、その下勉強でもある。
◆前日の夜、持ち歩く地図を準備。明治の仮成図もいいが、1921年のものでも周囲は大きく変わっていないので、この1万1を使うことにする。五箇荘は住吉郡南部の荘園で、大学付近も該当するが、大和川の付け替えで分断された。今回は南部。

2022年10月22日、天下茶屋

◆天下茶屋。大阪に来るまで、この地名は知りませんでした。南海に乗ることもあまりないし。前 期の大阪の歴史演習履修者のみなさんとのつきあいが続いています。2か月に1回くらい、大阪巡りをしようかとラインができあがっています。7月末の授業の打ち上げ時に、初回、天下茶屋へ行くことになり、その後、日程調整を経て、10月22日になった。
◆朝10時、天下茶屋駅集合で、2時間程度。詳しくはやめておきます。秀吉が茶を飲んだという天下茶屋、その屋敷は継承され、1945年まで残っていたが、戦災で焼けたという。いまは、ごく一画に記念スペースができている。なお、天下茶屋という地名は、昭和48年に岸里に変更になり、なくなったそうである。同時という説明だったか、実はかつての天下茶屋の北が、新たに天下茶屋という地名にするという、ややこしいことに。したがって、この写真の地点は、大阪市西成区岸里東2丁目である。天下茶屋跡は天下茶屋にはない!。
◆次回はコリアンタウン。

唐櫃山古墳の見学

◆月曜日、雨。で本日。研究会の前の時間、いつも作業時間にしているところで、学生を2人つれ て、午後、ピンポイントで見学に行って帰る。
◆道路沿いにあってながめることはあったが、初めて敷地内に立ち入る。ガタガタになっている墳丘や濠、堤などを丹念に追い、史跡整備をするための基本的な材料が着々と得られていることに感銘を覚える。国府台地の地山の礫層はなかなかのものでした。で、旧宅敷地の一画に下ろされている石棺をシート越しにさわる。府道敷設時の調査は1955年なんですね。北野耕平担当だそうだ。図面や写真、遺物などは、いまどこにあるのかよく知らないが、もう藤井寺市に集めてほしいですね。墳丘長59mとある。図面を見たら、まあ60mといっても悪くはないのかもしれない。1歩1.5mで割ると40歩である。
◆米軍写真。市野山の外濠がよく残っていたんですね。びっくりだ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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