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人を幸せにする人になろう

AIの性能を上げている場合でない・・・と

◆最近よく見かけるようになりましたね。東大合格をめざすロボットを開発している話。しかし、それをやっている人が、やめにする、と。それは、東大合格より、ロボットの特性をのばす方面で開発を進めるということなんだが、一方で、この取り組みから、いまの中高生の読解力の危機感を覚え、急務だという記事。ちなみに、カミサンいわく。読解力以前に会話力さえない、と。話が通じないのだ。読む以前。

 新井教授が問題視するのは「AIが問題文の意味を理解していないにもかかわらず、どうして8割もの高校生がAIに敗れてしまったのか」という点だ。
 1つの考え方として「AIが得意とする計算や暗記が人間は苦手」というものがあるが、新井教授は「中高生も、AIと同様に教科書や問題文が読めていないのでは」という懸念をもとに、全国1万5000人の中高校生を対象として「日本語の文を読んで意味が理解できているか」という調査を2015年から開始した。
 例えば「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている」という例文から「オセアニアに広がっているのは(   )である」という文の空欄にあてはまるものを選ぶ問題がある。
 文章をしっかり読めば、答えがキリスト教であることは明白だ。しかし、全国約1000人の中高生のうち、約3割が正答を選べなかったという。他にも問題文に回答が書いてあるような同様の問題で、文章を正しく読み取れない生徒が一定の割合で存在しているという。

◆これ信じられませんね。だけど、こんな短文でも、読もうとしなんでしょうね。声出して読め、といいたいわな。それでわからんかったらどうしようもないけど、まあわかるやろ。目で追うかもしれないが、読む、ということをやってないわけだ。ながめている、字を追う、が彼らにとっては長すぎるんだ。マンガの吹き出しくらいでないと・・・。
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このところ

◆このところ、22;30とか23時に帰り、飯を食い、こたつを入れて潜り込み、新聞か『昭和史発掘』を読んでいると、すぐに眠りに落ち、そのまま寝ていることが続いています。布団で寝ていません。疲れてるな~、と。

恒藤展

◆今年度の博物館実習展は、12月に恒藤、1月10日から文・理の独自展、あわせて2時期3つとなっ た。恒藤は前期にやり終えるつもりが力及ばず未完で、後期も大学史の後半戦で学内標本で進めるつもりが、挫折し、元気がなくなり、実習生にとっても、決められた路線でもこっちが準備や配慮を行き届かせれば可能だったかもしれないが、こっちがそうもいかず、従来の文理それぞれでテーマを決めてやる路線に戻す。いろんな理由で、つまり第1弾恒藤の完成にこっちも頭がいっぱいだとか、こないだの学長前プレゼンとの重なりとか、結局は、かなり任せきり状態。昨日はパネルを作って、年明けの10日は配置のみ、との予定であったが、まだまだそこまでいかなかった。とはいえ、両方について、出してくる案や文章になんとか意見を言い、履修生等も受け止めてくれた。「ほったらかしやん」、というイメージは払拭できたかな。まあ、そんな心配せんでも、むしろそれくらいでも、自主的に進めくれている。あんまり口をはさまず、要所で確認し意見を言う、というのがよいのかもしれませんね。
◆とはいえ、12月は例年(ここ5年ですが)実習展とのつきあいで、かなりの労力を使う。本来はパンフレットをそのあとこっちが作って、なんとか会期中の途中に配置するのだが、力尽きて、今年は早々に断念した。ムラがあるのはよくありませんね。去年は思いの外うまくいったのだが、そのエネルギーはもうないかも。
◆今年の特殊事情があり、これは来年にも続くのではあるが、平常に戻った時、1年かけて準備するのがよいかな、とも思う。そして実習展の準備のなかで実務実習とやらを(例えば写真撮影とか)入れていければ、実践的かなとも。しかし、まあ疲れる。定年までやり続けるパワーはないかも。もっと老練になって、自分が動かずとも要所を締め、自走するようにもっていくような力量がつくのでしょうか。博物館課程に、文学部のほかの先生もかかわらせるようなことも、考えていかなければなりません。マンネリになるだろうし。嫌いではないがオーバーワークになると続かんし。

吉田晶先生の原稿

◆吉田先生がお亡くなりになったのは2013年。いま『市大日本史』の仕事をしていると、ふと第12 号の先生の論文を紹介したくなる。2009年。美濃国戸籍に関する長大な力作。先生の原稿が届いたとき、編集としてはうれしいような、半面、たいへんだ!、と思った記憶がある。前年の講演からたいへん準備をいただいていたもので、当日、時間について事務局がどう伝えていたか不明ながら、いつ終わるんかいな、というもので、途中で終わりの時間を聞き、はしょられた。それが原稿になり、膨大な表を含む40頁の大作となった。先生のことだから、その後も書かれたものもあるのだろうが、最晩年の、まとまった論文としては、もしかしたら最後のものか、とも・・・。
◆いま、年内に片づけるべきことを、大学に泊まり、ぜんぶやろうとしております。どうなりますか。

なんとか真田山シンポをクリアし

◆12月17日の土曜日、真田丸シンポが無事、終わりました。持ち時間40分、やはりちょっとオー バーか。パワポやっとこさ作ったものの、練りがあまりない分、舞台でのしゃべりが円滑でなく、言おうと思っていた必要なことで言い切れなかった点もある。まあ、しかしあんなもんだわ。
◆絵図にある姿、最終の姿なんだろうけど、3つの馬出し曲輪とされているものが、みな慶長3年にできたのかどうかは、大手口をのぞけばわかっているわけではないなと。大手の空堀はそれにふさわしいが、あと2つはどうなのかなと。難波宮の古い調査で検出された堀の落ち1か所は原典にあたることができなかった。準備を通して大いに大坂城の勉強ができた。
◆懇親会。同じ日、都城制研究会例会も行われていて、同じ飲み屋に突入。真田丸グループが終了し、そっちになだれこみ、さらに2次会へ行き、なんとか帰り着きました。
◆聞きそびれたのは、南外堀の南側のくぼみが旧地形なのかどうか、ということ。なんであんなん なんだろうかな、と。

カジノ

◆関連記事。このならびで日本は賭博に甘い、との論も。エロ本もです。コンビニに堂々と、どこ でも露出して並んでいるなんて、外国人はどう受け止めているんでしょうか。
◆それはそれとして。経済とは人が生きていくためのカネの回転として、これも貧困対策とか、格差是正こそ正当な道だろうに。人が生きていくためのさまざまな活動があり、いろんな品物やサービスを提供する側があり、必要とする側が購入し、そうした循環のなかで収入を得て、食べ物を買い、子どもを育て、再生産していくもの。大企業や優良企業があることによる雇用があることに越したことはないかもしれないが、別になくとも、人口にみあった職があって、それぞれの収入を支え合うものになってればいいわけです。ある意味、カネのめぐり総量でさえない。回転。貧困層対策をほったらかしにして、さらにカネを巻き上げる仕組みを喜んで導入しようとする神経がわからん。パチンコです。膨大なカネがどちらかというと貧困層から、さらにむしりとる装置として、すっかり定着している。
◆法律ができ、大阪府がまっさきにでも沿岸にIRをと打ち上げるなら、やはり住民票を移すことを考えよう。

いや~疲れるわ

◆火曜日の17時から30分。学長・副学長ほか、幹部らの前でプレゼンをする。資料は30部だが、そんなにもおらず、まあこじんまりとした会でした。そんなに緊張はしなかった。時間配分の心配のみ。前に文学部教授会でやっと時と基本は変えていないが、その時は10分で早口。今回は30分あるのでと、すこし欲を出して画像を加えていき、感覚的にはいけると思ったが、そこはできるだけゆっくりとしゃべる、とすると、やはり少し足りなかった。でもラスト3枚はやめたくらいで、本筋はしゃべれた。
◆懇親会付き。ビールを飲みながら、学長とも話をしたり、と。まあ卑弥呼とか古墳とか、まったく関心のないむきもあるだろうが、専門は違ってもけっこう好きな人はいる世界のことをやっているので、30分のあとの30分の質疑も次々発言があり、答え、18時から場所を変えて懇親会となる。そこでも好きな人はいろいろ質問してくる。あ~あ、疲れた。
◆ほんとは博物館実習の授業とダダかぶりだったのだが、なかなかそこはダメとも言えず、受けました。無事終了して、ほっと。
◆さあ、真田丸でんな。

なんとか土日をこなし

◆都市史学会の15分。17分に近くなってしまったかも知れませんが、まあ無事終了。懇親会費を支 払うも、桜井市のパワポ作りのため大学に戻る。22時までにほぼ貼り終わりました。最後の話のところ、右のような「太陽をいだく月」から王と神女の画像を頂戴し、『韓国の歴史』(教科書の日本語訳版)から、三国時代の政治と宗教の分離の話を引いてきた。
◆翌日は9時集合。8:40に桜井駅に降り立つと、箸墓のモニュメントができあがっている。そして開始は9:40にもかかわらず、同じ電車からぞろぞろと参加者が市役所方面に向かう。会場の文化会館に着くと、開場が9:00なのでしょう、列をなして待っていた。参加者は900人くらいという。まあごっついホールです。出番は午後。石野先生の記念講演を会場で聞きながら最終の手を入れ、 10時頃には終了か。50分のところ、5分程度はオーバーしたかな。
◆桜井市 のHさんや所長のTさんと親しく話ができ、とても有益でした。
◆資料で、わたし参考文献を挙げてなかったもんで、やっぱりいるだろうということで加えたため、1頁多くなり、裏に事務局の方で、発表者の年代観の違いを示す図表を入れてくれていた(下)。会場のみなさんにとってわかりやすい措置でした。まあ年代観は違うわけだが、こっちの年代観がどのような手続きで導かれているものか、それを理解してほしいので、資料になかったものもパワポには入れ、構築過程を説明したつもり。それがすべて正しいとはいわないが、論理の筋 道はわかってほしいもの。むろん、論理的には正しくとも、どこかでコケているかもしれませんが。
◆とはいえ、土器をやっているみなさんのベースは、土器型式の変化であり、1型式20年といった目安や、全体の変遷からみた(例えば第Ⅴ様式との対比を含めた)幅の感覚だろう。これに石塚の年輪年代が加わるのではあろう。が、やはり土器では年代は決まらないわけです。箸墓が布留0の真ん中として、それを1990年代の三角縁神獣鏡により250年頃に置くことが確定し、わたしはそれを立脚点にしているのですが、I先生やHさんは、そもそも箸墓が3世紀後半なんです。庄内式の年代幅の理解の前に、箸墓の年代観(布留0まんなかの年代観)が一致していないわけです。置くところが、そもそも下がった位置。
◆もし箸墓以前の布留0古+庄内式の年代幅の感覚が妥当とすると、この網掛け帯の下辺を250年にもってくると、3世紀後半とか中頃に繰り上がる。
◆で、なぜ箸墓が270年頃であったり280年頃であったり、ということが決められるのか、ということ。それはやはり中期の年代観から布留式諸型式を積んでいって、3世紀中頃までは上がらないという、いわば小林行雄のかつての積算とあまり変わらないやりかたとも感じる。布留1式の下限がいつ頃で、2式はいつ頃で、ということの参考になるような年代の定点は、土器の側にはない。晋式帯金具も類例は少ないし、大陸での幅もあるし、決め手にはならない。これもまた三角縁神獣鏡の国産開始時期を考えることで、行燈山が4世紀前葉といったおよその定点がえられるわけです。

外来語

◆1990年代後半、中央官庁にいると、課長補佐クラスがしきりと「スキーム」という。
◆近年は「ミッション」とか「アジェンダ」とか。
◆大学界もしかり、「AI(アクションアイテム)」というのだそうです。「ポートフォリオ」も。それと3ポリ。アドミッションポリシー、カリキュラムポリシー、卒業のはなにポリシーだっけか。いまアホみたいに、3ポリを書き直させている。不毛。
◆これらは世間とは乖離した隠語です。日本語を使え。明治人の方が気骨がある。
◆桜井市のパワポ、7割まで来た。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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