人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
第3高等学校
◆一室に第3高等学校の歴史の部屋があった。で、もとは大阪の舎密局だと。そういえば、大阪で石碑を見た記憶があるな~、と。以下、ウィキ。
明治2年(1869年)に大阪、翌明治3年(1870年)に京都にそれぞれ設置され、前者を「大阪舎密局」、後者を「京都舎密局」と称する。なかでも大阪舎密局は第三高等学校(京都大学の前身校)の源流となったこともあって、「舎密局」の名称は大阪の方のみを指すこともある。
「舎密局」の「舎密」とは、幕末期に広く使用された、蘭語のchemie(化学)に対する当て字(例えば宇田川榕菴の著書『舎密開宗』など)であり、当時、実生活に対する洋学(科学)の応用という点で化学が特に重視されたことに関わる命名である。
幕末期、幕府の洋学教育研究機関である開成所に理化学校を建設する構想があったが、維新期の混乱により実現せず、明治元年(1868年)、後藤象二郎と小松帯刀の建言により、戦乱を避けて学校の設備を大阪に移転し、ここに理化学校を設立することが決定された。その年大坂城西の大手通旧京橋口御定番屋敷跡(現・中央区大手前三丁目1番)に新校舎が建設され、翌明治2年5月1日(1869年6月10日)旧開成所のオランダ人化学教師ハラタマを教頭として大阪舎密局が開校された。この時のハラタマの講演は『舎密局開講之説』として同年舎密局より刊行され、以降、ハラタマやリッテル(ハラタマの後任教頭)ら外国人教師による講義録が多数刊行され、化学の啓蒙に資した。
開校時の舎密局は大阪府の管轄であったが、明治3年(1870年)4月、大学(文部省の前身)に移管され、同年5月26日(6月24日)には学則を改正して「理学校」(理学所とも)に改編、ついで10月24日(11月27日)には大阪開成所(第三高等学校の源流の一つ)の分局となった。しかし明治5年8月3日(1872年9月5日)、学制公布にともなう大阪開成所の「第四大学区第一番中学」への改編により、舎密局以来の理化学教育は廃止された。跡地には明治8年(1875年)に大阪司薬所(大阪衛生試験所の前身)が設立された。

1886年に第3高等学校になり、3年後というから1889年に京都市上京区吉田に移転したという。 これが前提となって、1897年に帝国大学がここに置かれたみたいです。で、徽章というもののセットの額縁があり、戦前の高等学校のものがならべられているのですが、一橋の前身である東京商大はあるんですが、大阪の商大はなく・・・、後発なんでしょうか。
明治2年(1869年)に大阪、翌明治3年(1870年)に京都にそれぞれ設置され、前者を「大阪舎密局」、後者を「京都舎密局」と称する。なかでも大阪舎密局は第三高等学校(京都大学の前身校)の源流となったこともあって、「舎密局」の名称は大阪の方のみを指すこともある。
「舎密局」の「舎密」とは、幕末期に広く使用された、蘭語のchemie(化学)に対する当て字(例えば宇田川榕菴の著書『舎密開宗』など)であり、当時、実生活に対する洋学(科学)の応用という点で化学が特に重視されたことに関わる命名である。
幕末期、幕府の洋学教育研究機関である開成所に理化学校を建設する構想があったが、維新期の混乱により実現せず、明治元年(1868年)、後藤象二郎と小松帯刀の建言により、戦乱を避けて学校の設備を大阪に移転し、ここに理化学校を設立することが決定された。その年大坂城西の大手通旧京橋口御定番屋敷跡(現・中央区大手前三丁目1番)に新校舎が建設され、翌明治2年5月1日(1869年6月10日)旧開成所のオランダ人化学教師ハラタマを教頭として大阪舎密局が開校された。この時のハラタマの講演は『舎密局開講之説』として同年舎密局より刊行され、以降、ハラタマやリッテル(ハラタマの後任教頭)ら外国人教師による講義録が多数刊行され、化学の啓蒙に資した。
開校時の舎密局は大阪府の管轄であったが、明治3年(1870年)4月、大学(文部省の前身)に移管され、同年5月26日(6月24日)には学則を改正して「理学校」(理学所とも)に改編、ついで10月24日(11月27日)には大阪開成所(第三高等学校の源流の一つ)の分局となった。しかし明治5年8月3日(1872年9月5日)、学制公布にともなう大阪開成所の「第四大学区第一番中学」への改編により、舎密局以来の理化学教育は廃止された。跡地には明治8年(1875年)に大阪司薬所(大阪衛生試験所の前身)が設立された。
1886年に第3高等学校になり、3年後というから1889年に京都市上京区吉田に移転したという。 これが前提となって、1897年に帝国大学がここに置かれたみたいです。で、徽章というもののセットの額縁があり、戦前の高等学校のものがならべられているのですが、一橋の前身である東京商大はあるんですが、大阪の商大はなく・・・、後発なんでしょうか。
無題
◆生涯学習は終わりのない巨大マーケット。
◆東大の電子ジャーナル代は年10億円。
◆東西ドイツの統合は、西ドイツによる東ドイツの併合。
◆偉大なるセンター試験。
◆いい師匠をもっていることは重要。
◆父性とか母性というのはない?
◆東大の電子ジャーナル代は年10億円。
◆東西ドイツの統合は、西ドイツによる東ドイツの併合。
◆偉大なるセンター試験。
◆いい師匠をもっていることは重要。
◆父性とか母性というのはない?
29日祝日
◆誰にも邪魔されない至福の一日である。ほかのことはほっといて、ひたすら書評を書き、いま仕上げにかかっているが、飽きた。
◆難波京は藤原京や平城京の半分の市街地規格らしいが、それを900尺と表現することに違和感があり、前からぶつけているのだけれど、大阪市のみなさんは納得してくれない。なんで?大宝令に規定されてまっせ。歩や里を使うんだと。900尺とか1800尺という言い方は、きつく言えば間違っていると思う。同じやないか、でなく。どう思いますか。書評では改めて論じると逃げることにしたが、改めてというのは5月17日なんですわ。GW明け1週間で、難波宮京の設計をことごとく説明づけてやる、と気持ちの上では思っているんですが、なにせ遺構データをもっているわけでなく、調査事例そのものの知識がなく、しんどい話です。まあ宮くらいはなんとか。
◆19:00、入稿した。次は研究室だより。
◆難波京は藤原京や平城京の半分の市街地規格らしいが、それを900尺と表現することに違和感があり、前からぶつけているのだけれど、大阪市のみなさんは納得してくれない。なんで?大宝令に規定されてまっせ。歩や里を使うんだと。900尺とか1800尺という言い方は、きつく言えば間違っていると思う。同じやないか、でなく。どう思いますか。書評では改めて論じると逃げることにしたが、改めてというのは5月17日なんですわ。GW明け1週間で、難波宮京の設計をことごとく説明づけてやる、と気持ちの上では思っているんですが、なにせ遺構データをもっているわけでなく、調査事例そのものの知識がなく、しんどい話です。まあ宮くらいはなんとか。
◆19:00、入稿した。次は研究室だより。
そのあと背ノ山に行ったんです
◆前から行きたかったんですけど、つきあってくれるというので接近。斜面は果樹園で道は付いて いる。で、1周したのち、山道を上がっていきました。まあ農道で細いので
すが、なんとかたどりつきました。畿内と畿外を分ける丘陵地で、電波鉄塔が建っている。二の峰といったか、頂部は背山と妹山という2こぶになっている。南の紀ノ川に面しているのは背山。
◆右が東の畿内を見たところで、左が西の紀伊を見たところ。とはいえ改新時の話です。頂上に神社があり、説明看板がひとつ。樹木の植え込みがめぐり、公園風にしており、ベンチもある。が、やはり訪れる人は少ないのだろうし、維持できていないみたい。東西方向の見通しがつくように、両サイド、一定の伐採をしている。しかし、南面、紀ノ川の地狭部を見下ろすには、うっそうと樹木が茂り、ここで地勢が区切られているという姿を一望することはできない。
◆いい場所なんで、きっと前期古墳があると思っているのだが。パッと見では、神社のところが一段高いが、明らかにマウンドといったものは見あたらないが・・・
◆右が東の畿内を見たところで、左が西の紀伊を見たところ。とはいえ改新時の話です。頂上に神社があり、説明看板がひとつ。樹木の植え込みがめぐり、公園風にしており、ベンチもある。が、やはり訪れる人は少ないのだろうし、維持できていないみたい。東西方向の見通しがつくように、両サイド、一定の伐採をしている。しかし、南面、紀ノ川の地狭部を見下ろすには、うっそうと樹木が茂り、ここで地勢が区切られているという姿を一望することはできない。
◆いい場所なんで、きっと前期古墳があると思っているのだが。パッと見では、神社のところが一段高いが、明らかにマウンドといったものは見あたらないが・・・
3週目が終わった
◆なんとか火曜日の授業3つをこなし、GWです。ちょっと処理能力を超える雑用量で、それが溜まっている
が、早めに片付け、GWの課題に向かう準備をせねば。
【写真】日曜日に和歌山紀美野町でタンボを鋤きました。とはいえ、もう作ってないんですけどね。月1ぺんでも、めんどう見れて、カミサンの両親に負担をかけないなら、米を作ってもいいのですが、そこまでの決意はできません。で昼に北側を見ると、シュロが植えてあり、槇の木が2本。いずれも先端が2つあって、面白いなと。
◆考研の発表もあり、危機感をもって望んだからか、市大日本史の編集作業は順調に来ている。あと入っていない原稿は、自分の書評・・・、とほほです。それとこれも自分がいつもまとめている研究室便り・・・、とほほです。これはバトンタッチですね。来年からは若いモンに任せよう。
【写真】日曜日に和歌山紀美野町でタンボを鋤きました。とはいえ、もう作ってないんですけどね。月1ぺんでも、めんどう見れて、カミサンの両親に負担をかけないなら、米を作ってもいいのですが、そこまでの決意はできません。で昼に北側を見ると、シュロが植えてあり、槇の木が2本。いずれも先端が2つあって、面白いなと。
◆考研の発表もあり、危機感をもって望んだからか、市大日本史の編集作業は順調に来ている。あと入っていない原稿は、自分の書評・・・、とほほです。それとこれも自分がいつもまとめている研究室便り・・・、とほほです。これはバトンタッチですね。来年からは若いモンに任せよう。
ヒストリアが来た
◆まあ頑張りました。20頁くらい書いてます(人の文の転載が多いが)。兵庫城の文章を読むと、
校正が適当だったな、とは思うが(4月上旬はめいいっぱいだったの
で)。御廟野の、自分のノートに書いた想定スケッチを見ると気恥ずかしいが、でも文章で書いても伝わらないと思ったので、メモ書きをそのまま載せた。
◆またまた考古学研究会大会の話をする。やろうと思ったのは、よくできた図を作ること、レジュメを完璧にすること、パワポに工夫をこらすこと、語りを魅力的にすること、である。委員会にむかってちゃんとやったでしょ、といったポーズのためではない。意識したのは聞きに来る学生・院生等にむけて話すということ。
◆まずレジュメとは何か。いちばんよくできているといつも思っているのは、うちの近世史のレジュメ。まあ文献史では普通なのかもしれないが。要するに、論の運び、章・節・項が実にきっちりと組まれており、この根拠からこれが言え、次にこれがあり、それによってこうではないか、という論理立てを表現したもの。発表の前刷りは文章なのかもしれないが、レジュメというのは違うと思っている。文章で書くものではないと。
◆自分の経験でいうと、ヒストリア大会報告の時、準備報告を2回し、それによってレジュメがど
んどん整備されていったという実感があったのを思い出す。よくできたレジュメは、それを設計図にして文章を書けば論文になる。うちの近世史は、卒論・修論で、実際に書き始めるまでに、整ったレジュメを完成させる指導を行っているようだ。
◆自分のところの考古の学生に対してもそういう。レジュメは文章じゃないと。論じる組み立てだと。はじめにで、自分の考えるところや意図を5~6行の文章で書くのはいいが、本論レジュメの本体は文章で書くなと。まあ我流です。無駄なできの悪い文章を書き連ねると、一定のボリュームになり、またなんとなく伝わったらそれでよしとなる。ちがう。レジュメは、論理展開の設計図なのだ。
◆またまた考古学研究会大会の話をする。やろうと思ったのは、よくできた図を作ること、レジュメを完璧にすること、パワポに工夫をこらすこと、語りを魅力的にすること、である。委員会にむかってちゃんとやったでしょ、といったポーズのためではない。意識したのは聞きに来る学生・院生等にむけて話すということ。
◆まずレジュメとは何か。いちばんよくできているといつも思っているのは、うちの近世史のレジュメ。まあ文献史では普通なのかもしれないが。要するに、論の運び、章・節・項が実にきっちりと組まれており、この根拠からこれが言え、次にこれがあり、それによってこうではないか、という論理立てを表現したもの。発表の前刷りは文章なのかもしれないが、レジュメというのは違うと思っている。文章で書くものではないと。
◆自分の経験でいうと、ヒストリア大会報告の時、準備報告を2回し、それによってレジュメがど
◆自分のところの考古の学生に対してもそういう。レジュメは文章じゃないと。論じる組み立てだと。はじめにで、自分の考えるところや意図を5~6行の文章で書くのはいいが、本論レジュメの本体は文章で書くなと。まあ我流です。無駄なできの悪い文章を書き連ねると、一定のボリュームになり、またなんとなく伝わったらそれでよしとなる。ちがう。レジュメは、論理展開の設計図なのだ。
大阪市博物館協会との打ち合わせ
◆木曜日の10時からでした。ほんと、ちゃんと会議を開き、次の企画を考えていく、形ができてきているように思う。改新シンポⅢ、それから昨年度に提案した森ノ宮貝塚のシンポ、さらに4回の講座をやれということで、幕末大阪湾の台場を提案、3つとも企画を組むのはオレ。もちネタの総動員。まあ、けっこうやりがいをもってやっているので苦ではないが、もっとみながいろんなアイデアを出し、アイデアにあふれ、どこからやろうかといった姿が望ましい。出てこないのがそもそも問題。例えば加賀屋新田もやりたいし、大阪砲兵工廠もやりたいし、近代建築もやるべきだし・・・。まあそんなんで、あまたネタをもっとかんといかんわな。大阪本願寺だって、難波宮の調査で本願寺時代の遺構や遺物を集めればそこそこネタはあるだろうに。
◆大阪レキハクが、名前の通り「大阪」の「歴史」を伝える博物館で、歴史に関するネタをあまたもちあわせ、順々に調査研究し、企画展示をしてブックレットを出していくといったことを、ほんとうはやってほしいのだ。博物館というところはそんなところであるべきと思っている。何やろ~じゃなくて、あれもこれもやりたくってしかたない、というのがあるべき姿だと、博物館の授業では言っている。福屋工務店でなければならない。伝えたい熱意がすべて、である。
◆大阪レキハクが、名前の通り「大阪」の「歴史」を伝える博物館で、歴史に関するネタをあまたもちあわせ、順々に調査研究し、企画展示をしてブックレットを出していくといったことを、ほんとうはやってほしいのだ。博物館というところはそんなところであるべきと思っている。何やろ~じゃなくて、あれもこれもやりたくってしかたない、というのがあるべき姿だと、博物館の授業では言っている。福屋工務店でなければならない。伝えたい熱意がすべて、である。
考古研OB名簿も整わず
◆まあそんなことやってるヒマはなかったからね。日曜日が終わっても、市大日本史は日々の戦いだし。でも次の幹事会である土曜日が近づく。今日、ようやっと、再びエクセルにむかい、いろいろと手を打ったが、土曜日までになんとかするのは難しい。少しは前進させ格好をつけるほかない。ひとつ下の国文卒で国文学資料館に就職した後輩を調べると、南山大学に移っていた。U岡さんは信州大学だし。Mさんは神奈川大学だし。Iさんは松山大学(どっかで再会したのだが・・・)。1960年創設、55年分の名簿を整えるのは容易ではない。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。