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第3高等学校

◆一室に第3高等学校の歴史の部屋があった。で、もとは大阪の舎密局だと。そういえば、大阪で石碑を見た記憶があるな~、と。以下、ウィキ。

 明治2年(1869年)に大阪、翌明治3年(1870年)に京都にそれぞれ設置され、前者を「大阪舎密局」、後者を「京都舎密局」と称する。なかでも大阪舎密局は第三高等学校(京都大学の前身校)の源流となったこともあって、「舎密局」の名称は大阪の方のみを指すこともある。
 「舎密局」の「舎密」とは、幕末期に広く使用された、蘭語のchemie(化学)に対する当て字(例えば宇田川榕菴の著書『舎密開宗』など)であり、当時、実生活に対する洋学(科学)の応用という点で化学が特に重視されたことに関わる命名である。
 幕末期、幕府の洋学教育研究機関である開成所に理化学校を建設する構想があったが、維新期の混乱により実現せず、明治元年(1868年)、後藤象二郎と小松帯刀の建言により、戦乱を避けて学校の設備を大阪に移転し、ここに理化学校を設立することが決定された。その年大坂城西の大手通旧京橋口御定番屋敷跡(現・中央区大手前三丁目1番)に新校舎が建設され、翌明治2年5月1日(1869年6月10日)旧開成所のオランダ人化学教師ハラタマを教頭として大阪舎密局が開校された。この時のハラタマの講演は『舎密局開講之説』として同年舎密局より刊行され、以降、ハラタマやリッテル(ハラタマの後任教頭)ら外国人教師による講義録が多数刊行され、化学の啓蒙に資した。
 開校時の舎密局は大阪府の管轄であったが、明治3年(1870年)4月、大学(文部省の前身)に移管され、同年5月26日(6月24日)には学則を改正して「理学校」(理学所とも)に改編、ついで10月24日(11月27日)には大阪開成所(第三高等学校の源流の一つ)の分局となった。しかし明治5年8月3日(1872年9月5日)、学制公布にともなう大阪開成所の「第四大学区第一番中学」への改編により、舎密局以来の理化学教育は廃止された。跡地には明治8年(1875年)に大阪司薬所(大阪衛生試験所の前身)が設立された。

 1886年に第3高等学校になり、3年後というから1889年に京都市上京区吉田に移転したという。 これが前提となって、1897年に帝国大学がここに置かれたみたいです。で、徽章というもののセットの額縁があり、戦前の高等学校のものがならべられているのですが、一橋の前身である東京商大はあるんですが、大阪の商大はなく・・・、後発なんでしょうか。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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