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黒江漆器

◆知らんかった。以下、ウィキ。

 紀州漆器は、和歌山県に伝わる伝統工芸品の一つであり、経済産業大臣指定伝統的工芸品。会津漆器、輪島塗・山中漆器などとともに全国三大産地の一つと言われる。主な産地は海南市黒江であり、室町~戦国時代に近江系の木地師集団が定着し、紀州桧を木地に木の椀を製造したのが始まり。一部では根来寺の職人が豊臣秀吉による根来寺焼き討ち後に黒江湊に移住したという説もあるが、定かではない。
 明治維新の後、廃藩置県で紀州藩の保護を失ったが、明治3年(1870年)に元紀州藩の木村友重(南友重)が漆職人を束ねて漆製品を生産し、南家の船で本格的な貿易を開始したことによって次第に活気を取り戻し、明治12年(1879年)には他府県産の沈金彫の技術を導入した。また、明治31年(1898年)には京都府より蒔絵師を招いて、蒔絵の改良を図った。
 その後、天道塗、錦光塗、シルク塗などの変り塗が考案された紀州漆器は特長を一段と発揮させ、昭和53年(1978年)には通商産業省より伝統的工芸品に指定されている。
 主産地である海南市黒江には、漆塗りの体験ができる店や紀州漆器伝統産業会館(うるわし館)などの観光施設があり、団体旅行客も多く訪れる。また、毎年11月に漆器市としては西日本随一の規模と観光客動員数を誇る『紀州漆器まつり』が行われ、2日間で全国から5万~7万人が訪れる一大イベントとなっている。

もひとつ

◆西陵が古く(TK73)、西小山とニサンザイがほぼ同一時期(TK216)で新しい、というのが通 説。が、今回の埴輪を見て、やや新しくTK208くらいにかかる時期に下げても、という意見を聞くことができた。須恵器でもそう思われないこともないという。
◆そうなってきた時、西小山との比較は不可欠ながら、あれをニサンザイと同時期で、なんかしらんけど主墳に対する同一時期の弟分の墓みたいに捉えるよりも、西陵→西小山→ニサンザイという3世代として捉えられないのだろうか、と思う。西小山は並の造り出し付き?円墳あるいは帆立貝形でなく、かなり大きく、もちろん副葬品は優秀。そうすると、西陵の独自的な形態の大型前方後円墳(葛城系)から、規制を一度受け、大仙型のニサンザイへという流れが、よりスムーズに理解できるようにも思われる。
【追記】写真は検討会会場となった公民館の展示ケースにあった西陵古墳の埴輪。

大阪湾という湖(内水)

◆淡輪から戻るとき、海を眺めると、島と橋、そう明石海峡だ。今日はとても風がきつく、その 分、空気は澄んでいるんだろう。ということもあり、かなり近くに見える。

紀小弓墓?

◆北側に上面がかなり削られた造り出しがある。張り出し部の両入り隅部が出ている。
◆で、南側です わ。測量図にバッチリ出ているもの。これ図面を見たらわかるのだけれど、現場を見たら一目瞭然、見たことのない風景である。下段上面のテラスがある。下段斜面が下る、が谷間となっており、そこから「造り出し」が高まり、上面はテラス面より高いのである。谷間には埴輪列。なのでけっこうある斜面には葺石。上面では、家のほか盾、ユギ、その他、埋葬施設上の形象埴輪群のような破片があり、頂部縁辺には埴輪列がある。鍵の手の囲みではない。
◆そう、これは方墳なのである。埋葬施設はきっとある。宮内庁さんの認識でいい。がヘンである。こんなの見たことないわけだ。このヘンさ加減を見ると、通常の感覚でいえば、のちにこの場所を墳墓地として利用したのではないかと。もともと両側に造り出しがあったかどうかはわからん。山側の南側にはなかったのかもしれないし、あるいはあったかもしれない。いずれにしても、後付ではないかと思った。だから、谷間に断ち割りを入れれば、そのへんは解明されるだろう。墳丘の埴輪と、南造り出しという名の方墳の埴輪とで時期差があるのかどうかも要チェック。
◆そこで、ふと、これが探し求めていた紀小弓墓ではないのか、と。大伴卿が埋葬したという・・・。そんな妄想が浮かびました。独立した古墳を営めず、先代の墓に造ったと。5世紀後半代の首長墓がほかになく、西陵、西小山、ニサンザイは時期的には古く、小弓墓には当てられない。とすれば、そういうことも想像してしまうのである。

淡輪技法

◆淡輪技法の埴輪、底部に輪っかがある。叩き成形、ばりばりの須恵質。たしかにあるのだが、テ ラスに立っている埴輪は褐色土師質がほとんど。聞くところによると、北くびれ部、造り出し周囲で顕著だとか。

淡輪ニサンザイ

◆淡輪ニサンザイの見学会後、事後検討会を経て、大学に戻る。いま18:40。泉佐野での呑み会に参 加したいところであるが、土日を考えると、片付ける仕事があり、戻ってきた。
◆ニサンザイだが、干上がった陸地くらいの範囲で墳端は収まりそう。ほぼ周濠の浚渫等で墳端は失われているが、北くびれ部あたりで基底石が出ているので、おおよそ下段は復原できるだろう。参考までに大仙と重ねた図を示す(オレンジが大仙の復原)。墳端は実際には、そこまでいくかなとは思う。が、まあ平面形はよく似ている。

仕事に果てはなく

◆総選挙も、自民が300議席に迫る勢いだとか。対抗勢力が頼りないのでしょうね。選択肢がないわけだ。そうなれば安倍君は増長するんだろう。戦後レジームからの脱却というやつに拍車がかかりかねない。集団的自衛権や、派遣法や、論点はありすぎるほどあるのに、その危険性を明確に訴え、それでいいのかと問う野党側の鋭いつっこみがない。民主党の中間層うんぬんは正論なのだが、穏やかすぎるのではないのか。経済政策の是非に収斂することがあってはならない。自民党支持者に有利に働くだけだ。せいぜい公明党の軽減税率くらいの問題に矮小化し、経済政策全般への信任となってしまう。
◆いくらか議席が減るかと思っていたのに。天気が悪けりゃ自民や公明の組織票が強く、天気が良くても関心が薄いため、浮動票が大きく作用するという現象が期待できない。

明日は淡輪

◆宮内庁が発掘調査している淡輪ニサンザイの見学会が明日。今週、雨続きで、準備する宮内庁さんもたいへんにちがいない。見学する側も、足下はだいぶ条件が悪いのではないか。わたしは大仙型、5世紀第2四半期から中頃とみている。墳丘本体の発掘で確認される埴輪で、そこいらの年代観はどこまで迫れるのであろうか。
◆まあ、およそ西小山を含めた年代観は川西論文以来定まっており、被葬者像が問題になる。紀ノ川北岸勢力という見方に対し、田中晋作さんはそうでなく、百舌鳥側から送り込まれた人物像を想定しているように読める。オレはやっぱり紀氏かなとは思うが、地盤は紀ノ川北岸でなく、男里川流域、あるいは泉佐野を含めた日根地域かと考えたりもしている。それもまた紀氏集団の一部ではないかと。葛城氏のもとで、大阪湾岸の海上交通を実質的に差配し、和泉郡の勢力もその配下にあり、允恭朝にはまだ登用されるが、そのあと押さえ込まれると、そして根使主の事件へと続く。これで完全に和泉の勢力交替がなされ、日根県および茅渟県という直轄化に進んでいくと考えている。
◆雄略朝に半島へ派遣され病没した紀小弓は、淡輪ニサンザイ古墳の後継者くらいになるのだろう。淡輪に葬られたというが、該当するような古墳はない。

朝熊山経塚群

◆上ったわけですが、いまいち価値がわからなかった。これ解説を聞いても、という話。現地は史跡、経塚遺物の一部は国宝です。明治に「承安三年」銘の経筒が出土し知られるようになり、伊勢湾台風でさらに露呈し、1962年に発掘され、43基を確認したらしい。
◆うちひとつは、1159(平治元)年8月15日に、比丘尼真妙が勧進したことを記した金銅製経筒が出土しており、13巻のお経、銅鏡4面が副葬されていた。うち1面が宝物館に展示されていたが、これはいいものです。で、お経の1巻の奥書に、平治元年8月14日に死んだ「雅彦」の極楽往生を願って書写されたものを記すのだとか。この人物は、補任記録に残る度会雅彦なんだそうである。勧進尼僧真妙は雅彦の妻だろうと推測されている。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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