人を幸せにする人になろう

いよいよ根来の造成が始まる

◆表題の通り。いよいよのようです。こだわってやってきたし、現場を見届けたい・・・。

共通一次とセンター試験

◆今年の博物館実習展で文系は文学部60年展をやる。いま今週のいろんなことの整理をやっており(原稿には向かえない!)、実習Ⅰのあとかたづけをしている。学生にとって、入試制度の変更は、世代差をよくあらわすもののひとつとなる。オレは共通一次世代だが、センター試験とは何が違うんだろうか。で、調べてみた。ウィキ(改変)

 共通一次以前は一期校二期校から1校ずつ受験できた(その頃の制度は知らない)。「共通一次によって国公立大学は1校のみしか受験できないという一発勝負方式が受験地獄を緩和させる(はずの)新機軸として採用された。」、これ意味わかります?。「一発勝負方式が受験地獄を緩和させる」とは何か?。
 
1979年1月から1989年1月までの11年間11回(このうちの2回、受けたんやな~)。前半の1986年1月までの8回は、5教科7科目1000点満点、受験生は1校のみ(1学科のみ)志願して2次試験を受験。後半の3回は、毎年変更が加えられたそうな。5教科5科目800点満点、受験生は結果をもとに、日程別にグループ分けされた国公立大学のなかから最大3校(3学科)を志願して2次試験を受験することができた

◆で、センターとは。共通一次試験との具体的な相違点として、試験にかかる負担の低減と、入試科目の弾力化」だそうである。具体的には
・外国語・国語を100分から80分に短縮。
・100分で行っていた数学をAグループとBグループに分割、それぞれ60分とする。
・理科をAグループ(物理・地学)、Bグループ(化学・理科I)、Cグループ(生物)に分割。
◆ほとんどの国公立大学は、センター試験で5(または6)教科7科目、合計950点分の受験が必須としているらしい。文系なら、数学2科目(数学Ⅱというのはどんなんか)で理科1科目なんだって。そこが違いますね。負担の軽減というのは、まあ分割したけど数学は数学、で、文系でいえば理科が1科目でよい、ということのよう。弾力化というのは選択肢の幅を少し広げたと。
◆私立大学も入試として導入。これは大きな違いですね。私学も科目を選択して受験する、国公立はだいたいひととおり、だから、「共通一次」という言葉は適当でない。そうすると、おおよそ共通テストとしては同じなんだけど、私学を中心に、全員が5科目ぜんぶ受けるというのでない、というものにしたところがミソで、「センター試験」という名称にした、ということのようです。国公立の受験からすれば、まあ大きく違うものではない。

いや~

◆授業でコケるとへこむ。昨年、博物館の担当になって、毎週毎週しんどい思いをしながら、初めての授業をなんとか準備しこなした。今年は2年目になるが、まあなんとかなると思っていたら、今日、コケました。受講生のみなさん、すいません。
◆で、落ち込んで1時間ほど寝てました。が、へこたれていても何にもならず、明日、木曜日のことを考えないといけません。まあ、ちょっと気力は戻りつつあるということかな。それにしても、前にも書いた、金曜日の科研対策講座はものすごく心理的負担が大きい・・・。ああ

ある一文

◆同僚に求められて書いたものだが、〆切に出さなかった。とくに理由はない。

 なぜに軍隊をほしがるのだろう。なぜ原爆をもつための原発をやめられないのか。大国意識?、国家として当たり前?。なぜ安倍晋三みたいな人間が生まれるのか不思議だが、彼らばかりでなく、若い世代のナショナリズムが再生産されていることが心配である。
 日本の安全保障は脅かされている、備えが必要だと改憲側は主張するが、脅威として語られていることの多くは虚構である。いまや、かつての日本のように、あからさまに他国を侵略することはほとんど考えにくい。第2次世界大戦の途方もない犠牲の上に、ベトナム戦争という悲劇を乗り越え、アジアやアフリカ諸国は独立し、(中略)、それぞれの国が対等に議論できる世界を作り上げてきたからである。
 日本が攻撃を受ける要因があるとすれば、むしろ在日米軍や自衛隊の存在だろう。その示威行為は、一般に抑止力とよぶのだろうが、既に憲法9条の「武力による威嚇」に抵触するといえるかもしれない。ストックホルム国際平和研究所 (SIPRI)の統計では、2012年度、日本の防衛費は世界第5位で、4位の英国とほぼ同額の600億ドル(5.9兆円)であるという。いま語られる脅威は、知恵を働かせ外交的に解決できる問題であり、約6兆円もの金で買う抑止力など必要のない世界の平和をめざすことだ。
 そのためには、そんな軍備競争から降りて、日本国憲法に謳われている平和主義、国民主権、基本的人権の尊重の実現に努力すること、平和で、自由で、人間らしく生きられる社会をめざすことにあり、それが世界平和に貢献することそのものである。世界の一員として日本がやるべきは、世界の国々が対等に議論する枠組みが、より機能するよう育てることである。日本国憲法の平和主義にもとづき、発言し行動することではあっても、軍事的決着の動議に賛成したり、まして兵隊を送ることではない。また、安全保障問題として日本が取り組むとすれば、東アジアの平和の構築であろう。
 そう簡単な道ではないだろう。だが、それぞれの国が尊重される世界をわれわれは作り上げてきた。それを維持する仕組みをどうしていくか、長い挑戦は続くだろうが、各国が自己の勢力拡大や威信のために軍事力を保持する時代ではもはやない。(掲載にあたって少し手を入れました)

◆これを書いていて思ったのは、「安全保障問題として日本が取り組むとすれば、東アジアの平和の構築であろう。」というところ。まじめにやってはどうか。中国の軍事力の伸びが著しいとか、自分ところの軍備充実を棚に上げて脅威を喧伝し、競い合うのでなく、大まじめに、面子はともかくも、平和条約をもちかけたらどうなのか。そうでないというのは、真に平和を願っているわけでないということだ。平和であっては困る、ということなんだろう。

陵墓のはなし

◆ブログを書いているヒマがあったら、書類をはよ書けということはわかっています。が、まあブログを書く元気が戻ってきたということでもある。なんとかこの調子を維持し・・・。
◆表題の話はこういうことです。日曜日に陵墓の集まりがあったわけですが、この間、自分ができることをいろいろやったわけです。具体的には、文章にするという誰かがやらねばならない叩き台の作成です。いろいろ議論をするなかで、自分としてのイメージができている場合、書きたいわけです(なんのこっちゃわからないでしょうが)。
◆書きたいのはここからで、宮内庁の限定公開や立入り観察など、現場を見せてもらって、いちばん得をしているのは自分だろうな~、と、いつも思っています。陵墓になっている前方後円墳の発掘現場などを見せてもらって、いちばん研究に直結しているのは、このオレだと。見ることもむろん、それを報告記事にまとめることも為になる。ほんとは、1本1本、論文を書くくらいやってもいいと思うのですが、そうはいかない。次々に新しいめぐりあいがあって、追いつきません。
◆そういう、ありがたい機会をいただいているわけだから、陵墓の運動体(いわゆる15学協会)のために、自分がやれることをやろう、得たものがあればできるだけオープンにしようと、そう思ってやっております。恥ずかしい告白ですが。

この1週間を乗り切る

◆29日の日曜日、9時出勤、合同調査の一定の整理をして、ヒストリアの特集原稿を1本入れる作業をし、自分の記事原稿は仕上げねばと思いつつも終わらず、17時になったので京都に向かう。21:30まで陵墓の会議に出て、それから帰ってきた。3日間の新聞を読み、トンイの録画を見て、いま2:20か。これから明日締め切りの書類を完成させ、たぶん、ある要望書の書き直しはできずに寝るだろう。
◆明日30日月曜日は、朝に書類を提出し、研究会をやって、午後からコースガイダンスをやり、入試の打ち合わせが入り、それから大歴の委員会に出る。結構大変。
◆10月1日火曜日から授業が始まり、講義がふたつ。水曜日は、1回目だけの講義がひとつと演習、木曜日には博物館実習Ⅰが再び始動する。すべて最初が肝腎!、とはいえ、この調子だから、なかなか準備もおぼつかない。ま、でも、学期が始まると生活サイクルも整う。第1週を乗り切ればと思う。一方で、ヒストリア10月号のドタバタがしばらくは続くだろう。東京方面から、イギリスに行ったときの記事を読みたいとのリクエストも来ているが、当面は無理かもしれません。そうそう、科研の締め切りもあります。その前に、若手に対して科研対策講座で話をしろ、というのも確か4日に入ってました。オレがね~。
◆やっぱり今週をいかに乗り切るか、ということに間違いないようです。
【追記】共通教育の登録が200名強。このところ100名前後で推移してきたのになんでやねん。去年の試験が甘かった?。ままよ。

大阪市大と和泉市の合同調査

◆やっぱりイイもんだ、と改めて感じる。今年、D進学者がおらず、また、就職等で院生がかなり 抜け、現有院生が今年度の調査について心配し、春先に教員側と話し合いをもった。院生が多大な労力を傾けて取り組んでくれており、負担だがそうやってこれまでやってきたという自負もあるからこそ、年度初めに、ただちに今年はどうなるのかを心配してくれている、その姿勢に敬服する。そして話し合いをしてよかったと思う。
◆最終日の報告会は4時間におよんだが、各班で相談して事項を整理し、資料を作成し、担当を決めての報告が続く。例年の姿ではあろうが、なにか頼もしく見えた。2回生はじめ初めて参加する学生は、どういうことをするのか、あれこれ聞かされ、事前のガイダンスもあるとはいえ、よくわかっているわけではないだろう。けれども調査にはいると、一緒に文書の目録を作成したりするなかで、どういうものかを知っていく。上回生や院生とともに、きわめて真面目にやっているという当たり前のことが自覚されていく、そんな3日間になっているように思える。単に経験するというのでなく、史料や聞き取りやフィールドからわかることを探っていく姿勢や、共同して取り組むなかで自分も一員としてついて行こうとすることなど、やってる意義は大きいように思う(あんまりうまく言えませんが)。むろんカタイばかりではありません。
◆実行委員会で取り組み、教員がぐいぐい引っぱるのでなく、院生たち学生たちが、それぞれ準備し、運営し、みながそれぞれ役割をもち、その共同作業の上に進められている、そういうあり方が実にいいもんだと思う。実行委員のみなさん、ありがとう!。

伯太藩陣屋跡

◆伯太には江戸時代の途中、背後の山林地に1万石渡辺氏の陣屋が置かれた。家臣団屋敷など陣屋 内を描いた絵図が2つあり、最初の段階のものと、明治をむかえた頃のもの。図のピンク色の線が陣屋の範囲で、薄茶色で表したのが、最初の段階の絵図に描かれた屋形および家臣団屋敷。合同調査の時に宿泊している大阪市の青少年野外活動センターもその一画にあたる。
◆その次の段階には(いつ頃なのか、わかってるんだったか?)、奥まった溜め池の両側に展開していたものはなくなり、左上のかなりの面積を有する高台に全面的に広がる配置へと転換する。
◆どうなんですかね、考えてみれば、小栗街道に面する北西部の高台上の方が適当な場所であることは自明のようにも思う。敷地の提供の問題もあったのかも。
◆小栗街道に面して陣屋の入り口があり、また野外活動センターの入り口は、もとの裏門を踏襲しているように思う。その陣屋の入り口、正門にあたる附近の水路脇の土手に、瓦や陶磁器が散らばっており、いくつか採集した。
◆家臣たちは、明治以後も残っていたが、だんだんと外へ出て行き、いつといったか、どこかの時点で、もとの場所に住み続ける元武家はいなくなったということだ。昭和12年だったか、元渡辺家中により、陣屋を顕彰する石碑が建てられ、その除幕式の時の写真も見せてもらった。住宅の一画に、この石碑は残存する。小栗街道に面する正門あたり、この石碑のある地点、そして青少年野外活動センターの入り口などに、伯太藩陣屋跡の説明看板が欲しいところである。
◆明治に入った頃の下の絵図では、土塀が一周していることが明記されている。それに相当するものが、野外活動センターの正門脇などには残存し、また発掘でも検出された箇所があるという(軍が手を入れたことも考えないといけないらしい。伯太にはいま自衛隊の駐屯地があるように、のち軍隊が置かれる)。

3系統の水利の塗り分け

◆詳しくはまた整理してから、とは思います。現場中に作成した図と、現地を歩いて確認した水路 を記入したものの画像を出しておきます。
◆黄色のところが槇尾川からの取水による水がかり部で、青実線の太いやつが幹線で、下にたどっていけば黒鳥に行き着きます。ほか2つは、薄い黄緑と、薄い黄色で、それぞれ信太山の谷水によるもので、ため池を造っています。
◆7世紀の役人が、この幹線水路をどこにどう通すか考えたんだろうな、などと思いながら歩いておりました。まあ、基本的に地形を考えれば、自然に決まるプランではあります。槇尾川の遠い取水口から水をはるばる引くことで、伯太・池上が成り立っており、古代にさかのぼっても、上泉郷50戸はこれがないと成り立ちません。
【追記】狭山池や古市大溝はめちゃ有名ながら、国府河津井のみならず、昨年の和気にかかわる久保津土井も、今回の幹線水路も、信太の大野池の水路も、これらもみな7世紀の大開発として理解すべきものであると思う。むろん発掘などで年代を絞り込める事例にはならないわけだが・・・。伯太で言えば、幹線水路より低地部側にしか条里地割りが及ばないことは、両者がセットであることをはっきり示している。

伯太の合同調査終了

◆無事、終了しました。今回、伯太の水利と伯太藩陣屋跡を理解することを課題として臨みまし た。
◆水利は、初日最初の聞き取りで、水利組合の保管する絵図が出てきて、そこに3系統の水がかりが塗り分けてあり、一発で知りたいことがわかりました。和泉市史テーマ編の時、伯太の水はどこから来ているのか、グーグルアースのお世話になりながら調べ、槇尾川からだろうと考えていたのですが、基本は山の水だという意見もあり、原稿には書いていたものの、校正時に落としました。やはりそうだった!ということです。現地で水路をたどり、黒鳥の天神さんまでたどりました。前から、グーグルアースのビューで、天神さんの横に水を祭ったと思われる祠があり、水路がめぐっていて、これ意味深だ!、ここに行きたいと思っていたのですが、たどりつくことができました。
◆江戸時代の絵図で、国府河津井から枝分かれし、伯太方面にのびる水路を表現したものがあることも教えてもらいました。ただ、現地で確認したところでは、3本が枝分かれする国府河津井よりも、伯太からたどってきた水路は高さが高く、つながりが確認できませんでした。絵図を手がかりに、再度、訪問が必要です。ただやはり高さは気になります。確認できていない近世絵図に描かれた枝分かれ箇所から、ほんとうに引かれているのかもしれません(普通に考えればそうなのだが)。が、一方で、黒鳥の村中を通る天神社につながる水路も、たとえば光明池ができた時に付け替えられた、といった新しいもののようにも思えないのです。
◆江戸時代の絵図というのは、争論に際して?、黒鳥と府中の水路を中心に描かれたもので、伯太にのびる水路は付加物的な描写です。その辺もまた気になるところです。無関係な点は省略されている可能性はないのかと・・・。江戸時代の絵図を見せられれば、そうなんだろうとは思うのですが、それがすべてなんだろうかと・・・。さらに検討してみます。

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プロフィール

HN:
雲楽
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61
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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