人を幸せにする人になろう

同成社の古墳時代の考古学第4巻を受けとる

◆執筆者を見ても、もう自分より若い者が大半を占める時代になっていることがよくわかる。

小さいことはいいことだ

◆ハルカス、身近で見ると、とんでもなくデカイ。大きな地震でガラスが割れて降りそそぐことないことを祈るばかりである。経844c7100.jpg営的にペイするのかどうか、知ったことではないが、心配ではある。なんとか大学がワンフロア、キャンパスにするのだとか。大阪が元気になること(中身は?)はいいことではあるが、宮本順三の「小さいことはいいことだ」ということに共感する。
 

ついでに市美

◆ボストン美術館の展覧会。わんさと人が訪れている。、いいものなんだろうし、見に行くe344b557.jpg人が多いことも良いことだが、市大日本史に渡辺さんが書いたように、こういう新聞社などのスポンサー付きの大型企画展のみが、大宣伝キャン4f75a524.jpgペーンで人を集めているとすると、それがいいことだとは喜べない。あっちこっちで、地道な企画展をやっており、そういうものの紹介記事なぞ、あまり見ることはない。牽牛子塚の報告書が出たというので大きく紙面を割いたどこかの新聞社も。
◆1500円払ったが、15分で流して終わった。けっこうな人たちがゴッツイ図録を買って帰っている。
 

大阪企業家ミュージアム

◆行ってみました。けっこう楽しめます。企画展はマホービンで虎と象、ともに大阪なんですね。時代が下ってくると生臭くなる。a9e68a48.jpg関空だの、学研都市だの、と。500円くらいの冊子があればいいですね。帰り際に、この施設いつできたんですかと訪ねると、12年と言ったか、2001年ということか、それくらいの時期にオープンしたらしい。

京都大学考古学研究会の発足

◆市大の考古学研究会がなくなり、遺物や図書を引き取った。その関係の図書も、眠っていたが、こないだ、だいたい処理し3e3aa459.JPGた。そこには京大考古研の会誌『トレンチ』もある。トレンチも、自分のいたころのやつは製本してあるが、07c05761.JPGそれも図書館へ入れることにしよう。そんなんで、市大考古研のところにあった『トレンチ』34・35・36がまた手元に出現したが、捨てるにはしのびないので、いましばらくは取っておこう。で、創刊第1号と第2号も出てきた。第1号の末尾の「会の歩み」が掲げられている。
◆1960年宇治で発足、鳥羽離宮の調査などに参加。この年の11月、小野山助手の指導で、寺戸車塚の測量をしたという。つまりは物集女車塚古墳ですね。年明けの1961年3月には長岡京第3次調査に参加。1961年にクラブボックスが吉田に移転。4月~5月、考古学教室の大学院生佐原氏に縄文・弥生文化のレクを受ける。また、堺市経塚古墳の発掘調査に参加。夏、城陽市西山古墳群、近江国分寺、比叡山大講堂の発掘にメンバーが分かれて参加。
◆創設者の一人、橋下久氏とは、こないだ兵庫津の研究会で顔をあわせた。都出先生が入学したのも同年で、最初は関わったようだが、途中で離れたと聞いている。鎌田元一さんが入学するのは1964年、栄原先生と同期である。
◆『トレンチ』創刊号の西山4号墳の概報の冒頭を掲げる。
 

こんなんもやりました

◆やったといえるものではない。記念物課課長補佐と建設省の担当とが実質的にやっていた。この原稿までの研究会というのe7c50817.JPGがどういうものかは知らない。やったけど少々眠っていて、改訂版をやっぱり出さなあかんという時にかかわったんでしょう。主任に、ちょっとやってくれへんと言われ、まあ、できあがっているものの文章の点検とかのチェックくらいだったような気がするが。
◆そんなんで、建設大学校の授業の1コマでしゃべらされることになり、場所はどこだったか、出講したことがあった。
 

武藤先生の思い出

◆高校時代、加古川の旧図書館で考古学の本を借りて読んでいたりした。必ず武藤先生の名前が出てくる。戦前の人、と思っていた。黒川にアルバイトに行っていたのはいつのことだろうか。たぶん森下さんが先で、もう1人増強するというので声がかかったのではなかったか。鏡の拓本をずっとやっていた。そこで武藤先生に出会ったわけである。お昼は、武藤所長をはじめ、みながテーブルを囲んで食べる。先生はいつもパンで紅茶を飲んでいたように思う。オレは夙川駅前でパンを買い、バスに乗ってカヤンドウかどっかで下りて、研究所まで歩いていた。貧しい学生で、なんかそぐわない場所に来ているといつも感じていた。バイトの期間はいつからいつまでだったか、よくは思い出せない。そう長くはなかった。
◆瓢塚のレポートをまとめていた頃、武藤先生に姫路の瓢塚の測量をしたと言ったら、翌週、アルバムからはずしてきた古いモノクロ写真を持ってきていただき、貸していただいた。昔の話も聞いたのだろうが、よく覚えていない。ということで、1987年のことだろう。
◆どこかの段階でアルバイトは切れたのだろう。そして1990年の3月頃かと想像するが、電話がかかってきた。兵庫県史の考古資料編を作るので、嘱託で来て欲しい、と。即座に応じたかどうかは定かでないが、武藤先生の依頼を断れるはずもなく、1年間、兵庫県史の仕事にかかわることになる。週3日、神戸に通った。兵庫県史の編纂事業も実に長く続いており、残っていた最後の方の巻だった。で編纂委員会が年1回くらいに減ってはいたのだろうが開催され、武藤先生も顔を出されていた。

よろ瓢塚の頃

◆今日も、道上君と実習室等の図書の整理をしていた。自分の部屋にある雑雑も捨てるものは捨てる。で、『ひょうご考古』の6yoro.jpgかなんかがあって、武藤先生の追悼集があった。それで武藤先生の思い出を書こうと思った。そこで丁瓢塚のファイルをくっていると、2冊のノートがあり、トラバース計算をしているのを見て、自分の思い出をまず書くことになった。
◆まだしかし思い出を書く年齢ではないし、ファイルも残っている。しかし、これなども捨てるものは捨てて、残すものは製本するなどの処置もいずれ必要となろう。岩倉の窯跡の測量をやってきたが、そう広い面積ではないし、基本は自然地形なので、トラバースを組み閉じる必要はなかった。瓢塚は100mあるが、いまから考えると、そんなきちんとしなくてもほとんど変わりはないと思うが、研究室でトランシットを借りて、まず打った杭のトラバース測量をやって綴じ、角度を足して誤差を割り振ったわけである。旧版の『発掘調査の手引き』(牧野車塚です)を見ながらやったんだろう。測量の本も買った記憶はある。その上で、原図はどうしたんでしょうね。白いマイラーベースで方眼ではない。結局は分度器と物差しで?。いや、なんか思い出してきたが、追求するのはやめておこう。1987年3月のことである。
 

5月23日、長岡京市の委員会

◆日程調整をやってた時には、この日の博物館実習Ⅰは見学のために授業はしない日にあたっていたので、院演習を午前に4a16952e.JPGしてもらえば、午後の会議に行けると思ったが、新歓祭で5限が休講になる日が間に入り、その目論見a94ffb2d.JPGがずれてしまった。なので、朝、院演習をやり、会議に向かい、15時で失礼して、また大学に戻り実習の授業となる。なので、整備工事の現地視察までで、議論の場にいないことになり、申し訳ありませんでした。
◆現地はすっかり平成の盛土がなされ、前方後円墳らしく成形されていた。天気はむちゃくちゃ良く(暑い)、天王山もよく見えた。そう、前方部に立つと、天王山と男山の地狭部がよく見え、明智光秀はじめ、なんかの時に陣取るにふさわしい場所になっていることがよくわかる(サントリーのビール工場が邪魔だが・・・)。
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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