人を幸せにする人になろう

続いて誉田御廟山

◆同じ文献、初版は昭和41年。道路が建設中だ。よく見ると、アリ山がはげ山状態。北野先生調査時とすると昭a8f0e272.JPG和33年らしいが、そこまでは古くないか。外濠・外堤を道路が横切っている様子が見て取れる。府営住宅はすっかりできているが、まだ三ツ塚のあたりは家は少ない。

箸墓と上ツ道

◆茨木高校で話をしたとき、小学校の時に読んでいた本を紹介した。見返してみると、けっこういい写真があっ3fb6c860.JPGた。けっこう古い時期ですよ。まず1枚目、箸墓。カミツミチ。

2011年11月5日よみうり伊丹文化センター

◆学園祭のシーズン、後期のなかでまとまって休みのある期間なので、外国出張者も多い。オレも、この時期に2944d686.jpg毎年、韓国に行きたいもんだが、今年はなし。誰やらのピンチヒッターで伊丹に出向く。見た顔が多い。初ネタだが、この調子では同じ話を場所が違うからってやってられないことになる。
◆昨日は夕方から梅田で会議。予想していなかった呑み会に突入。誰かさんのおめでたで、その産まれてくる子の名前で、ず~とオッサンたちがああでもないこうでもないと提案し合う。
◆ペーパーは前から準備していたが、パワポはゼロ。朝9時前から大学にやってきて、資料を3枚にすべく行をけずり、そのあと、石室の画像を集めてきてパワポを作る。まあまあか。
◆この手のヤツ、しばらく受けないことにしたいのだが・・・。
◆この表紙だけ見ても、天王山式と石舞台でぜんぜんちゃうやん!そう思いませんか。できるなら、丸山の石室のレーザースキャンをやってみたいものだ。
 

野中宮山

◆ここは幼稚園があって、前方部がちょん切られている。だがどうなんでしょうか、子どもも減っているんとちゃい7362cc8e.JPGますか。幼稚園を統合し、ここは廃止にすることも可能では。
◆住宅地のなかにあって、ここまでの古墳の中で子どもたちがいちばん遊んでいた。南側の濠に相当するところを公園にして遊具等を置いていることもある。で、後円部には野中神社がある。神社の背後は急な崖面になっているためか、墳丘の流出をふせぐためにフトン篭を積んでいる。全体としては痛みがはげしい。

はざみ山古墳

◆いつも横を車で通過するものの、中に入ったのは初めてだ。傷んでますね。後円部後端側のみならず、下段673480b7.JPGがほぼ濠でで浸食されてしまっているように思う。
◆ここの場合、土地がらみでゴタゴタやっていたように思う。濠があると、安全管理の問題もある。そんなんで、なかなか整備というわけにはいかないのだろうが。

大鳥塚

◆これもまた110mのきれいな前方後円墳。行者塚と同形同大か。いま、五社神で論文を書き始めているが、相e53119af.JPG似墳候補としてみているもののひとつなのだが、前方部は低いですね~。勉強に2540598a.JPGなる。古相の根拠にはなるが、五社神の前方部はもっと隆起している。違うんかな~。ま、それはぼちぼちやるとして、要は、ああいう頭でっかちで前方部の短いタイプというのは、五社神型で平面形的には説明がつくのだが。
◆墳丘は荒れているところは荒れてますよ。

古室山

◆あいかわらずでかくてキレイ。復元的にやるならこれか。墳丘というより濠をきっちり調査し、キレイな墳丘ととe8209e21.JPGもに、堤の状態も復元し、埴輪を立てれば、なかなかいいんでは?。4b3a2354.JPG
◆ところで、鍋塚も墳丘がずるずるになって流出しており、古室も大鳥塚もそうだった。芝がいいのか、牧草がいいのか、笹がいいのか、ともかくも封土の流出を止める必要がある。古室山の後円部墳頂は、そのために真砂土が盛ってあった。例えば芝を貼るにしても、しっかりと定着するまでめんどうをみてやらんといかん。人がいる。世界遺産にむかって盛り上がっている時期に、しっかりとした現代の墓守たる地元の管理体制を構築する必要がある。

三ツ塚

◆前に来たことがあるかどうか不確か。一回くらい来たような気もするが記憶が定かでない。3つの方墳がならぶ7267af3a.JPGが、2つが宮内庁の仲津山陪塚で、ひとつが史跡。が、仲津山の築造された段丘ec94c083.jpgの斜面部含めて住宅地となり果て、三つを見通すことができないし、近づけないようなものもある。修羅が見つかったところにも、とくに看板はなかった。土師の里の埴輪窯を含めて、もったいないが、なかなか宅地が貼り付いてしまったものを動かすことは難しい。斜面にならぶ埴輪窯も、一部史跡公園で確保できれば、アクセントになっていいのだが。
◆ところで三ツ塚だが、5世紀説と7世紀説があるらしい。助太山古墳の頂上に二つの巨石があり、これが740798214.JPG世紀の石槨の天井石でないかとみられているらしい。それで、東側の陪塚二基の間で修羅が出土した際に埴輪が出ているが、おそらく窯跡が北にあるもんだから、ほんとうに5世紀でいいのかが疑われ、南辺をそろえた三ツ塚はすべて終末期古墳ではないかとの見方が生まれているらしい。
◆確かに助太山の石は「なんじゃこりゃ」というシロモノだ。二上山かどうかわからんが凝灰岩で、風化しているが、板状で、きれいに調整された石材のように感じる。南側の裾部で埴輪片を拾ったが、これも土師ノ里の窯のものか?。でも、中身がぜんぜんわからんというのはどうなんか。助太山の墳丘と濠をしっかり掘って、頂部も露呈させて養生した方がいいように思うがな~。

盾塚

◆これは知らんかった。看板の説明によると、そもそも府営住宅のために末永は調査したとのこと。雰囲気から3187d7ae.JPGすると、その時に調査後に削平したが、最近になって裾が調査され、それにもとづいて復元的と言うよりは、あまり高く盛らず、わずかに高くして、造り出し付ホタテ貝として整備したというところか。
◆この整備は府のものか。ちょっと看板も古く色あせているので、リニューアルが必要か。埋葬施設の表示などもとくにないようだ。敷地に余裕があるので、古市古墳群の復元模型のようなものを設置するのも一案か。

仲津山(オオササギ墓)

◆北側がいいのだが、三ツ塚に行くため、南側を歩く。濠は市野山よりも深く、かつ急で、そして墳端まで近b868b899.JPGい。つまり濠底の幅は狭い。規模の小さい市野山の方が広い。
◆これ、オレの2系列の根拠のひとつ。墳丘本体を割り付け、濠の肩をどれくらb842b1a6.JPGい離して設定するか、主系列と副系列で、設計が異なっている。仲津山-大仙であって、津堂-ミサンザイ-御廟山-市野山とは違う。だが、古墳時代に王が2人いるという以前に、倭国王墓に2系列があること自体、あんまり認めてくれない。
◆オオササギというのは、たいした根拠はない。前の論文では、津堂のあと、仲津山とミサンザイがあると、で、仁徳と履中に年代的ダブリがあると、なので、仲津山は神聖王墓でウジノワキイラツコ、ミサンザイは仁徳(履中)といった表記をしたように思う。が、そのあと、ホムダワケ-イザホワケ-ミズハワケ-オシハワケと、ワケが連続することに意味があり、それこそが副系列墳、すなわち執政王の身分的呼称と考えられた。だから、仁徳がオオササギでオオササギワケでないから、ウジノワキイラツコが実在するかどうかはわからんが、応神の詔り分けがあるとすると、神聖王オオササギ、執政王イザホワケと考えればよいと判断したもの。ウジノワキイラツコ=オオササギ、ということだ。オオササギが527年、イザホワケが533年没だったか。忘れたが、まあそんなところでイインではないか。
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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