人を幸せにする人になろう

旧大阪府庁舎の現説

◆大阪府庁舎の発掘現場の現地説明会に行きました。教室ハイキングの時、川口居留地から地下鉄阿波座の駅cb489911.JPGに歩いていくとき、実は見ていた場所だったことがわかりました。四周全部ではない6179154c.JPGが、花崗岩を積んだ立派な柵がめぐっており、その上には鉄柵があったのでしょう、上面に穴が連続的にならんでいた。その古い年代物の柵を見て、これ立派だ、なんかのお屋敷かなと思ったからです。
◆ここ2年ほど前まで、空襲で焼け落ちてからも、大阪府の府有地だったそうです。それが橋下知事の財政再建で売却され、マンション建設がなされることになったわけです。途中

町田章奈文研前所長の逝去

◆1991年に奈文研に入った時、町田さんが平城部長でした。所長は鈴木嘉吉、センター長田中琢、研究指52aba24d.JPG導部長佐原真、藤原部長は牛川さん。古き良き時代の奈文研の最後だったといえるかもしれません。まだ大運動会はあったし、大忘年会もあった。作業員さんには、毎月、現金で給料を支給しており、給料日は発掘は早めに終了し、給料の分配が行われていました。
◆入所した11月に結婚しました。20年前のことです。町田さんに仲人をお願いしました。橿原市白橿町のご自宅にカミさんと訪ね、奥様にもお会いし、われわれと顔合わせをしました。町田さんが平城部長時代に、媒酌人になっていただき結婚したのは、玉田さん、われわれ、そして建築の箱崎君、この3組でした。
◆去年の藤沢さんの会の時、玉田さんと3組で一度おたずねしようという話になり、そのとき、わたしはベロベロでしたdc75c140.jpgが、玉田さんが「4月や」と言ってきたのは覚えています。
◆そのあと、3月に入院する前に手紙をいただきました。埼玉県の方から、埼玉の集落遺跡で鏡が出土し、その解釈について町田さんに類例などを問い合わせたもので、わたしは鏡について下垣君に類品を質問し、返事をしました。そのあと、町田さんからお礼の手紙を受け取りました。肺ガンの手術をしていまは在宅していると。
◆そのあと、いまに至るまで、町田さんをお訪ねすることなく「部長」は逝ってしまわれた。ついこの間、実は「行っておかないと」と思う出来事があったのですが、訃報に接することになってしまい、ほんとうに後悔します。
◆長らく平城部長で、長屋王邸の発掘を含めて、むろんその前の自ら発掘していた時期を含めて、研究所時代の多くを平城宮・京の調査に邁進された方でした。所長となった時期は、独立行政法人への移行など、たいへんな変革期に舵取りをなされ、その苦労はたいへんなものであったに違いありません。中国考古学の第一人者として学究肌であり、かつ平城の調査の指揮を取り、また組織の長として、仕事に打ち込まれた人生だったと思います。享年72歳、若すぎます(20年前は52歳だったのですね)。調査部考古第2の部屋が多かったと思いますが、夕方にやってきては、毛利光さんや巽さんが酒を出してきて、一緒に呑んだことも少なくありませんでした。人間くさい、そんな町田部長が好きでした。
◆叙勲の時、そのお祝いの会でお会いしたのが最後となってしましました。

大阪府の旧庁舎の発掘調査

◆新聞記事を見た。これってこないだ川口居留地に行ったときに、対岸にあったやつだ。発掘調査をしているなんe393de04.JPGて、そんなん知らんわ。明治初期にできて大正末年まで、いまの大手前に移る前まで使われたものという。
◆そのあとは工業奨励館だったって。それって、難波宮の瓦を調べたときに、大阪府の博物場がその一画にできて、展示された、あれとちゃうんか。
◆レンガの基礎が残っとる。マンションでつぶすんだって。困ったことだ。明日、土曜日、現説やって。行かなしゃーないな。さてと・・・

あ~あ、よう働いた

◆ヒストリア8月号の原稿の作成と、わたしたちの文化財、企画メンバーの報告原稿の調整をすべてやった。
◆自分の原稿、陵墓懇談会、歴史教科書採択反対声明の記事。海津さんの根来の記事に、図や写真を配列して編集、保存要望書の記事の付加。それから、企画メンバーの大阪府の君が代条例の反対声明記事、公文書館問題の記事ふたつ。重点研究の会議をすっぽかしてしまった。仁木先生、すいません。

大阪府の君が代条例の撤廃を!

◆かねてよりこの問題について活動してきた、教員や弁護士らによる「「日の丸・君が代」強制反対ホットライン大5509296f.JPG阪」では、本条例の撤廃を求める署名運動を始めている。内容は、大阪歴史学会など3349c290e.jpg学会の反対声明と同じく、条例撤廃と、9月議会で制定されようとしている、したがわなかった教職員への処分を定める条例に反対するものである。9月までに集約して、知事らに提出する予定であり、是非とも協力をお願いしたい。
◆署名用紙(右)は、ホットラインのホームページ
http://www7a.biglobe.ne.jp/~hotline-osk/
からダウンロードできるほか、ネット署名もできるようになっており、ご協力を重ねてお願いする次第である。


和泉黄金塚古墳の追加指定

◆和泉黄金塚の整備委員会の委員をやっているが、この会議は開店休業中。で、ここの場合、墳丘本体の土地所有者が自分で守るということで史跡指定に応じず、まわりが史跡になった、なんともへんな指定がなされていたが、このたび、墳丘本体の追加指定ができるようになったとのこと。
◆あわせて指定地に隣接する土地の寄付の申し出があったとのことも。土地の買い上げを進めており、しばらく先になるだろうが、本格的に黄金塚をどうするかという時期がきそうである。

東大の総合研究博物館に行く

◆出発がやや遅れ、東京駅からタクシーに乗ったが、約束の13時を少しまわる。だが、前来たときの記憶で博物c8441778.JPG館をめざすがたどり着かずウロウロ、だいぶ時間を食う。
◆万年山の鏡の再撮影。頑張ったけど、自然光がやや足りない感じだが、まあ、なんとか。
◆それとともに、ここに津堂城山の遺物がある。下垣君がまとめてくれた表によると、青銅器があるようだが、鏡ではないのではないか、とのこと。それを見たいと思ったが、東大にある津堂の資料として出てきたのは木片と素環頭大刀の柄頭(サビで崩壊)、それと朱粒などのサンプル、この3点であった。博物館の方に、たいへんお世話になりました。
◆展示室の展示を見たかったが余裕なく、17時となり、そのまま帰る。破片である万年山の鏡を同一面になるようにセッティングするのにかなり時間がかかる。最初は1面に30分を要していた(7面ある)。
◆なんと、博物館を出たところにナントカ門というのがあるではないか。本通りか5f918a5f.JPGら入った小さな道に面して出入り口があるのだ。本郷3丁目の駅から、この門から入ればすぐだったのだが、構内地図も用意せずに行ったから迷うことになった。
◆で、この門のところ、加賀藩前田家の屋敷があり、レンガの基礎が見つかり(明治に入ってのことなんでしょうね)、それをそのまま近代建築の資料として、門のところに配置してあった。なんだか、ゴツイレンガの固まりがあるのだが、そういう訳だそうだ。

古墳時代の王宮

◆神戸大学の古市さんから、『日本史研究』に書いた抜き刷りを送っていただいた。それを読む。勉強になるわ。河内政権って、あるのだろうか、という気になってしまう。古市さんは、畿内各所の王宮にふれつつ、やはり奈良南部が王宮の中枢だと。5世紀の倭王宮も奈良だと。
◆ただし、そうした倭王宮は政治センターかといえば?という。そしてむしろ、王陵所在地における儀礼こそが重要ではないのか、ともいう。王宮か王陵か、という点でこれまでにない見方を示す。
◆いまの国会議員も、田舎に豪邸がありつつ、仕事は永田町でやっている、というのに近いのかなとも思ったが、それはそれで、じゃあ河内にそうした永田町にあたるような機能と施設があったのか。
◆今日、再度、読み直したが、なかなか手強い。だが、河内政権を考える立場としては、5世紀の王陵周辺や河内地域における遺跡をきちんと把握し、王宮は奈良かもしれんが政治センターは河内といえるのかどうか、まずは実態を整理する必要がある。

大阪城の会議

◆京橋から東西線で一駅、大阪城北詰で下り、数分行ったところの「大阪市公館」なる立派な施設で会議が行a750875e.JPGわれる。市大生活科学部の谷先生が座長で、坂井さん、研究所の長山さん、天守閣の北川さん、などと一緒だった。
◆大阪城の魅力をアップさせる観光戦略を考えるわけだが、そのなかで、石垣や、徳川期の遺構、地下に眠るトヨトミ期の大阪城など、大阪城のもつ歴史遺産としての魅力をいかに増大させるのか、ということ。まとめあげる場合に、大阪市としては、必ずしも文化財的な配慮のみならず、観光客のための諸施設の充実などのことも盛り込みたいし、またそれが使命であるようだが、歴史遺産をどのように活用していけばいいのか、ということを主たる課題として人が集められた会議である。
◆北川さんの発言では、過去に繰り返しこうした会議が何度も招集され報告書がまとめられたが、実行されてこなかったという。そうした経緯はあるにせよ、寄せ集めではなく、大阪城の対策課のような専属チームが結成され、とにもかくにも、大阪城を調査研究し整備活用する基本指針のようなものをまとめようという今回の目的は大賛成である。
◆大阪城のダメさ加減を指摘し、特別史跡だと言って、大阪市を責めるだけでは建設的でない。そうしたことを考えようと取り組んでいる心意気よし、ということで、原則的なところはそうとして、今回の検討をふまえて、今後、本腰を入れて取り組むことにつながるようなものにする必要がある。


縄文ネタ

◆レキハク青森研究会で教えてもらったこと。
◆(1)続縄文って、基本的に北海道なんだって!。東北北部は弥生化したが定着しないわけだが、そのあと、じゃあ続縄文かというとそうではないという。土器からすれば、田舎館式に後続する独自の土器様式圏を形成し、そこにのちには後北式続縄文土器がかなり南まで広がるが、それはあくまで北海道の続縄文文化の人々の動きを示すものの、ベースは独自の土器なんだと。
◆なので、弥生後の東北北部は、続縄文でもなく、独自の文化圏であるらしい。だが、それはどのようなもので、どうとらえればいいのだろう。それと、基本は狩猟採集として、北海道の続縄文文化とはどう違うのか。
◆土器が違うのはわかったが、例えば広い意味では続縄文で、そのなかの地域圏の差といった把握は誤りなのか。
◆他方、続縄文が北海道の文化として、しかしそれは縄文文化ではイカンのだろうか。稲作はやっていなくても、穀物が現れ増えるとか、鉄器も出るようになるとか、それはだいぶあとのことなんとちゃうの。またいずれそうなるといっても、基本的に縄文文化が継続するなかでの変質だろう。たぶん緩やかな変化とちゃうか。どこかでガラッと変わるものでもないように思うが。
◆そうした場合、北海道の時代区分として、文化の中身の変質を捉えての時代区分になっているのだろうか。それとも、東北北部が一時的に弥生化するという点に照らして、その段階でも狩猟採集が続いているという意味で続縄文と言っているにすぎないのか、すこし調べてみる必要がある。要は、続縄文文化は、どう定義されるもので、それはいつからかという問題である。
◆(2)縄文中期と後期の変動論を質問した。が、中部高地や関東では確かに中期までの大規模集落は継続せず、後期前半はダメージが大きいが、しかし後期後半には復旧するらしい。佐原さんの書いたものなどから、東日本の人口が寒冷化によって支えきれず、ムラは解体し、西日本に移動していくのだと思っていた。
◆が、しかし小林謙一氏によれば、基本的に西日本も東日本もあまり歩みに差はないという。佐原さんの縄文文化諸要素の西進のグラフがあるが、そういうことではないらしい。西日本の集落が後期にはいると増えるのは確かだが、大規模な人の移動というよりも、ベースがあまり変わらないなかで、(気候変動などにより?)、西日本の縄文文化そのものが発展したととらえられているらしい。中期と後期の変動の理由を聞きたかったのだが、縄文文化における西日本と東日本の差をあんまり大きく考えないというところに、むしろ「へえ~」と感じた。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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