人を幸せにする人になろう

別冊『ヒストリア』ができた

◆2009年06月25日(金)、やっと別冊『ヒストリア』ができ、印刷屋から届けてもらった。涙・・・涙・・・9acca197.jpg、ああ4年かかった。あほみたいな話だが、嬉しいかぎりだ。このモトとなった企画は2005年4月の現地見学検討会。大阪歴史学会の委員になって最初の企画だった。苦労したなあ・・・。でもよかった・・・できて。まあまあいい本だと思う。通常号より150部増刷してもらった。すぐになくなるだろう、おそらく。
◆次は平野屋新田会所、その次は楠葉台場・・・。これらについてもいい仕事をしたいものだ。

紫香楽宮・近江八幡に行ってきました

◆2009年06月27日(土曜日)恒例の歴史学見学会。今回は栄原09b3dda9.jpg先生の案内による紫香楽宮ほか0f263eb7.jpg滋賀県。バスをチャーターし、参加は約50名となった。
◆まず、いまは甲賀市となったシガラキ、わたしは初めて。まず南の甲賀寺、大仏を建てたのがどこかが問題になっているらしい。展示館で、鍛冶屋敷遺跡などのパネルのほか、特別にスーパースター「アサカヤマ歌木簡」の実物をもってきていただき、見学することができた。朱雀路の検出された第2名神をながめ、宮町遺跡へ。すっかり田植えが終わった水田、北側の高い側からのぞむ。ラベンダーの植えられた99fbf7ed.jpg調査事務所でb5169daa.jpgDVDを見る。てっとりばやく内容を知るには映像が一番ですね。
◆そのあとは市大名物の城攻め、佐久良城。それから近江八幡にむかう。
◆まず煉瓦工場。全国で4つしか残っていないホフマン窯だが、朽ち果てつつある。この煉瓦も用いられているヴォーリスの洋風建築は、重伝建の町並みとともに大事にされているが、滋賀県も近江八幡市も煉瓦窯には冷たいと所有者さん。なんとかしたいと思って残しているが、個人では限界があろう。八幡堀に面し、近江八幡観光のe6ad078b.jpgひとつの材料となりうるもので、実際、ガイドマップにも掲載されているが、現在はまったくの放置である。
◆近江八幡の町をまわったのも初めてだ。大学時代、雪野寺跡の調査をやっていたころ、降り立つことは何度かあった。駅前に平和堂がある。しかしそれは近江八幡の町のはずれ。今回訪れて、町並み巡りをする観光客の多さに驚いた。近江八幡といえば、文化財保護法に新設された重要文化的景観第1号となった水郷というのもある。今回は、そっちに足をのばす時間的余裕はなかったが。そんなんで、ますます観光スポットとしての地位を確立してきているのだろう。たしかに落ち着いたいいところだ。
◆不満をひとつ。郷土資料館と歴史民俗資料館に行ったが、展示がいまいちだ。眼目は町並みや近江商人の商家などかも知れない。しかし、近世の八幡城および城下町の形成にしても、十分な解説はないし、まして考古資料などもわずかしかスペースはない。一方で、別途、博博物館があるなら別だが、そうした展示施設はなさそうである。重文などの建物はもちろん建築そのものを見せるとして、歴史民俗資料館など、展示スペースは限られているのだろうが、せっかく、これだけの人が訪ねてくれるのだ、きちんと近江八幡の歴史を示す展示をお願いしたい。

サンケイ新聞に記事が出ました

◆京都での陵墓シンポの時に取材にきていたサンケイの記者さんから電話があり、わたしの作adec767a.jpgった3D画像のことで取材したいという申し出があり、22日に取材を受け、さっそく2009年06月23日(火曜日)に記事になった。
◆報告書作りもデジタル化が著しい。我が社の場合も急速に。第2冊目の茶臼山の時は、老眼鏡をかけて、ロットリングで測量図を描いたが、第3冊のメスリの時は、所さんにイラストレーターの図を作成してもらった。これはあくまで報告書に2次元図を掲載するためだったが、和歌山・橋本にある測量会社である共和さんに、前年度(2007年度)に渋谷向山ほか3基のトレースをお願いしたところ、渋谷向山の3Dを作成してくれ、それを見て、昨年2008年の夏前に、メスリについてもAIのデータを渡しやってもらった。報告書作成は、校正もかなり進んでいた段階だったので、いろんな角度からの3D画像を挿図や図版に収録することはやめ、せっかくだからと扉に画像1点を掲載した。
◆こちらでイラストレーターで測量図を作成してやれば、キャドでの3次元処理は共和さんが比較的安価でやっていただけるので、本年2月の佐紀陵山古墳への立ち入りが決まった時点で、陵山について3D化して、公開時にわかりやすく見てもらうことを考え、昨年2008年12月から、わたしとしては初めてのイラストレーターによる作図にとりかかった。2月20日の立ち入り時の段階までに、ひととおりの作図は完成していたので、5月10日の陵墓シンポむけて最終調整に入った。12月の時点で、陵墓図にはないマエ塚も一緒にすることを考えて位置合わせはしていたが、マエ塚については絶対高でないため、等高線は陵山の図とは別になっていたが、これを結ばないと一体の3Dにならないので、厳密ではないが近似するところで線をつなぎ、データ的にはひとつにまとめ、共和さんにお願いし、3Dにすることができたもの。
◆いまは玉1の測量図もできあがっており、摩湯山のトレースにもかかっていて、順次、これらも3D化していく予定。

学生の就職難

◆教授会資料で出されたもの。どっかの企業の人がうちの大学で就職状況の発表を36f2da17.jpgした時の資料だそうである。
いまはながめてコメントする余裕がない。資料を掲げるにとどめる。

TK23の年代

◆新聞記事をここに保存しておこう。TK23の年代にかかわるデータ。ただしこれは最外年輪まではない資料で、42023e13.jpg新聞では450~460年という数字を出しているが、伐採から木棺への加工、そして実際の埋葬までの年代も見込む必要がある。460年代頃といっておくのが無難か。

13年ぶりのサッカー

◆06月24日、誘われて奈文研のサッカーに参加しました。前日からどうしようか迷ってい6e11df9e.jpgました。大歴の総会資料を仕上げなきゃいけない、当日の授業の準備もしていない。二兎を追う者は・・・という感じで、なにもできていませんでした。23日夜、なんとかパワポはあきらめたが授業の資料を仕上げた。朝、ウェアや靴下など、昔のサッカ-グッズはどこにあるか探さないとと思ってはいたが、それも忘れて、とにかく朝行って、授業の資料を仕上げて印刷。まあ授業はなんとかなった。次は、大歴総会資料、まだ書き上げていなかった個別案件の自分の分担分を書き、あとは全体の総括・方針の原案を手直しし、なんとかしあげメール。これでサッカーに行けそうになってきたので、小澤さんにメール。
◆問題は4限の授業(13:40-14:10)。結果的に、時間通りやっても間に合ったような気もするが、2時間はみておいた方がよいので、15:30に授業を切り上げなければならないと思っていた。実習で拓本である。ここしばらく実測をやっていたが、気分を変えて拓本と先週宣言していたので、拓本。弥生土器片を渡し、1人2個ずつ拓本をとってもらった。受講生に、悪いが奈良に行かなきゃならんのでと、15:45頃までやって、大学を出た。
◆サッカーは、藤原チームに入り、20分3本、1本目と3本目に出た。3-2で勝利。写真は、飲み会の席上、玉田氏が勝利を祝して、マグロとイカで紅白を作れという指示があり、ならべたもの。
◆やっぱり右のサイドバックにいて、真ん中が手薄になればゴール前にいた。最初の1プレーで、ボールに対処しただけで、息が上がった。山登りと違い、瞬間的な動きはきつい。でもまあ、そのあと、自分ではけっこうやれたと思っている。1回だけ、めっちゃ早いヤツに抜かれて、これはぜんぜん追いつけなかった。それと2点目取られたとき。これはオレの責任か。攻め込まれてクリアして一難去って、ボケーとつったっていたら、あっという間に玉を奪われ、オレが対処していなかったヤツをフリーにしてやられた。しかし、全般的に、守ってて、あまり不安はなかった。全体を見て、危ないヤツを張っていた。実際ボールが来て、ボールをもつ相手を十分にカバーできた。それにしても50でしかもメタボで前線を張っている玉田さんはスゴイ。
◆飲み会。いまの奈文研、若返って、彼らが話をしている姿は頼もしかった。組織はいい。個人営業の大学はちとつらい。
◆さて、2次会終了し、もう電車がない。小澤氏と橿原神宮前行きの普通で八木へ。タクシーに乗るつもりだったが、神奈川のカミさんに電話で相談し宿に泊まることに。八木もようわからんし、うろうろしたが適当なビジネスホテルはない。0:00過ぎの時間帯。結局、うろうろしたあげく、ネオン輝くラブホテルが1軒、しゃーない、酔った勢いで入りました。いまは従業員と顔をあわせることなく、チェックインも精算もできるところが多いが、ここはおばちゃんがいた。鍵をもらい入る。シャワーを浴びたらしい。寝る。朝は5:30に起きて、駅をめざした。今井町のあたりだった。それにしても、水曜日の夜というのに、空いていたのは1室、オレが入って満室。みなさん・・・。
◆自宅に戻り、子供の弁当を入れ、今日は1限の演習の授業があるので、大学にむかった。足は筋肉痛でうずく。

大和川と松岳山古墳

◆毎日、自宅からJR大和路線の高井田駅まで歩く。大和川にかかる国豊橋を渡り、ふりかえれc5c6a2aa.jpgば玉手山古墳群、そして川上の東側に目をやると松岳山古墳がある。ああ、松岳山の測量は、ここ4年言い続けて、できていない。今年こそはやりたいものだ。基準点の費用をどうするか・・・。
◆大和川、昔とは水量が違うと思うが、普段はわりあいわずかで、川底の瀬が見え、細い流れだが、ここ数日の夜から朝方のどしゃぶりのあとは、水量がぐんと増す。そのあとは、ゴミが散乱するのだが。
◆こういう風景を毎日見ています。

是川長先生と呑む

◆06月20日(土)、兵庫県太子町で講演をしました。学芸の田村さんは高校の1年上の先輩。西播磨の古墳で797b474d.jpg話をということで、大昔の加古川でしゃべった時の資料をひっぱりだしてきて、古墳の分布図をイラストレーターで作り、あいかわらず当日資料持ち込みとなりました。
◆田村さん曰わく「是長先生がたぶん聞きに来て一番前に座ってるよ、前に姫路で吉井君がしゃべった時そうだったから」と教えてくれました。是川長先生は、高校時代の恩師です。兵庫県の埋文係長をやめて学校教育の道を選び、加古川東高校に赴任されているとき、田村さんも、わたしも吉井君(1学年下)も、高校に在学していたわけです。思い出を語り始めると長いのでやめときます。
◆やはり先生は一番前で聞いていました。吉井君は不意打ちをくらったようですが、こっちは覚悟ができていたので楽でした。終了後、3人で飲みに行くことになってましたが、時間があるので、たつの市埋文センター(新宮)を見学しました。不満は、新宮・宮内859dc6e6.jpg遺跡の全体像がわからなかったこと。よかったのは朝鮮式山城の城山城のことがよくわかったこと、でした。なんとか報告書を手に入れなあかん。
◆資料館に戻り、呑みにでかける。だいたい18:00くらいだったと思うが、23:00まで時間を忘れて話をしていた。先生はぜんぜん酒量は落ちていないらしい。
◆後日、先生からお便りをいただいた。楽しかったと書いていただいたが、わたしもまったく同感。年に1度、正月に先生の所に集まることをやりたいという話が出たが、なかなか設定は難しそう。で、報告書が同封されていた。『長尾タイ山古墳群』。思い出深い、高校の時の報告書だ。むろん当時、1冊いただいていたが、いつのころかなくなっていた。大学院に落ちて、考古学をやめようと思って報告書をすべて売り払ったが、この報告書は取っておいたように思うのだが。このなつかしい報告書を再び手にして、たいへんうれしい。先生、どうもありがとうございます。自分の書いた高校時代の須恵器の実測図をやはりながめてしまいました。

ああ同感

◆この新聞記事を読んだとき、「そうだ」と思った。自分が考えていることと、ほぼ同じことをよく言b11e47d7.jpgってくれた、と。1人1人に人生がある。日本から拉致された横田めぐみさん、それと同じように、戦前に日本に多くの朝鮮半島の人々が来ていた。そもそも日本に併合されていた。それで命を失ったり、人生が狂った人々がどれだけいるか、ということだ。同じように親がおり、配偶者がおり、子がいる。まったく同じである。その人々の人生、その累積たるや、いまの拉致被害者数十人のレベルをはるかに超えるのである。

大阪府知事に見せたれや

◆教育は競争ではない、と思っているが、こういう記事があった。2008年1月7日の社説だ。自分の子供に何かを教えるとき、小さいときだ。ここに書かれているようなことを考えていた。考えて自力で見いだbcf48443.jpgすことが大事だということだ。結論を教えない。考える方向性みたいなことを示唆する。それで自分ではっとわかる、こういうとき、子供はいい顔をしているよ。
◆橋下さん。点数を開示させるのに躍起になるのもいいが、所詮はそういう点数の話だ。それを改善させるのに、教師の尻をひっぱたくのもいい。しかし、3年とかで順位を相当上げるとか、そういうことをめざすとなると、やはり所詮は、そういう学力にすぎない。
◆どうだろうか。大阪では、ここにあるような、じっくり考えさせる教育に徹するというのは。全国学力テストの順位など、ばかにしていればいい。そうではなく、大阪は結論を急がず智恵のついた人間を育てることを目標に、じっくり取り組んではどうだろう。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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