人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
継体シンポ
◆塚口先生に送っていただいたものを読み。村居田古墳というのと、林ノ腰古墳という重要な前方後円墳を知る。前に学
生と野洲あたりの古墳をめぐったとき、近江毛野の墓ってどれなんだろうと考えたことを思い出すが、辻川さんは林ノ腰古墳を候補と考えているとのこと。
◆継体が前代を継承している部分と、革新的なものを導入した部分と、0か100でないのは当然として、どう評価できるのか、ということがシンポで話題にされていた。古市末期をどう考えるかにつながる。横穴式石室も導入している、百済的な副葬品も導入している、それを定式化したみたいな評価をすべきでないかとの意見も。年代的に詰めるべきところは、とことんやらなあかんのでしょうね。しかし、授業でも使わせて貰い、こないだの阪南大シンポでも使った、道昭さんの播磨の編年表、これに古墳時代のだいたいの局面はすべて表れている。6世紀に入って、地域首長にとって時代は変わっていることは明らかだろう。ただ時期ですかね。継体生前というよりも6世紀半ばという見方もできるかもしれない。しかし、6世紀前半期(第2四半期)の淀川流域を見れば明らかだろう。一定の幅をもたせなあかんにしても、転換点は継体擁立にあるだろう。そして、ほぼ1代かぎりで続かないことは、安閑排除と欽明朝への転換が反映しているのだろう。
◆古市末期については、さらに考えたい。河内政権に接続され、仁賢の娘たちと結びつけられる。欽明だって古市で生まれ育ったからこそ、古市でモガリをするのだろう。が、6世紀中葉には、大和南部が核となる。
◆継体が前代を継承している部分と、革新的なものを導入した部分と、0か100でないのは当然として、どう評価できるのか、ということがシンポで話題にされていた。古市末期をどう考えるかにつながる。横穴式石室も導入している、百済的な副葬品も導入している、それを定式化したみたいな評価をすべきでないかとの意見も。年代的に詰めるべきところは、とことんやらなあかんのでしょうね。しかし、授業でも使わせて貰い、こないだの阪南大シンポでも使った、道昭さんの播磨の編年表、これに古墳時代のだいたいの局面はすべて表れている。6世紀に入って、地域首長にとって時代は変わっていることは明らかだろう。ただ時期ですかね。継体生前というよりも6世紀半ばという見方もできるかもしれない。しかし、6世紀前半期(第2四半期)の淀川流域を見れば明らかだろう。一定の幅をもたせなあかんにしても、転換点は継体擁立にあるだろう。そして、ほぼ1代かぎりで続かないことは、安閑排除と欽明朝への転換が反映しているのだろう。
◆古市末期については、さらに考えたい。河内政権に接続され、仁賢の娘たちと結びつけられる。欽明だって古市で生まれ育ったからこそ、古市でモガリをするのだろう。が、6世紀中葉には、大和南部が核となる。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。