人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2023年5月7日(日)、松前の福山城2
◆福山城の話はこれで終わらないわけだ。幕末の舞台になる。まず松前藩でのクーデタ。佐幕派が 抑え込まれる。実力者であった家老、松崎勘解由も切腹させられている。ただし藩主は病弱で寝ているだけ。家臣でも上位が佐幕派だったのに対し、中下級クラスが藩政を掌握したらしい。
◆で、旧幕府側が蝦夷地に入ると、函館を押さえ、松前藩を押さえということになる。新たに「館城」が造られ、そっちに藩主も移動していて、松前城の守備兵は50人程度だったという。で早くに勝敗の決着はつく。この時、敗走する側が火を放ち、このため町の3/4が焼亡してしまったという。なので、古い屋敷やら町屋などはほぼ残っていない。そして、函館戦争時に、松前藩兵が奪還する。
◆この城、雪国の城なので、瓦葺きでなく、銅瓦というのと銅板葺きであった。
◆そしてさらに。以下、ウィキ。
松前城は政府や道庁に保存の補助を働きかけたが実現せず、天守を改装して公会堂に利用していたが、昭和初期には修理続きで無用の長物扱いもされる状態であった。しかし、1935年(昭和10年)6月7日、城跡が国の史跡に指定され、1941年(昭和16年)5月8日には、天守、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)6月には、軍の命令により、天守が敵の目標となるのを防ぐため、藁縄を編んだものを天守に被せて遮蔽した。戦後、この網を除去したが、白壁が崩れて建物は骨ばかりとなり、鯱も落下している状況となった。1946年(昭和21年)に国が調査を行い、1948年(昭和23年)度に国と道で修理工事を行うことになったが、道が資金を捻出できず1949年(昭和24年)度に修理を行うこととなった。この解体修理を始めようとした矢先、火事に襲われる。1949年6月5日午前1時10分頃、国の史跡・松前奉行所跡であった松前町役場の当直室から出火したものが飛び火して、午前4時には天守と本丸御門東塀を全焼。
◆で、旧幕府側が蝦夷地に入ると、函館を押さえ、松前藩を押さえということになる。新たに「館城」が造られ、そっちに藩主も移動していて、松前城の守備兵は50人程度だったという。で早くに勝敗の決着はつく。この時、敗走する側が火を放ち、このため町の3/4が焼亡してしまったという。なので、古い屋敷やら町屋などはほぼ残っていない。そして、函館戦争時に、松前藩兵が奪還する。
◆この城、雪国の城なので、瓦葺きでなく、銅瓦というのと銅板葺きであった。
◆そしてさらに。以下、ウィキ。
松前城は政府や道庁に保存の補助を働きかけたが実現せず、天守を改装して公会堂に利用していたが、昭和初期には修理続きで無用の長物扱いもされる状態であった。しかし、1935年(昭和10年)6月7日、城跡が国の史跡に指定され、1941年(昭和16年)5月8日には、天守、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)6月には、軍の命令により、天守が敵の目標となるのを防ぐため、藁縄を編んだものを天守に被せて遮蔽した。戦後、この網を除去したが、白壁が崩れて建物は骨ばかりとなり、鯱も落下している状況となった。1946年(昭和21年)に国が調査を行い、1948年(昭和23年)度に国と道で修理工事を行うことになったが、道が資金を捻出できず1949年(昭和24年)度に修理を行うこととなった。この解体修理を始めようとした矢先、火事に襲われる。1949年6月5日午前1時10分頃、国の史跡・松前奉行所跡であった松前町役場の当直室から出火したものが飛び火して、午前4時には天守と本丸御門東塀を全焼。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。