人を幸せにする人になろう

2023年5月6日(土)、上ノ国勝山館

◆江差はもっとゆっくりすべきですね。そこから上ノ国に向かう。 1996年、役所勤めの1年目でも最初の頃に出張し、勝山館を見せてもらった。
  ◆洲崎館と花沢館、この2つもめぐるべきでしたね。出張で上ノ国に泊まった時、武田信広とか、勝山館をめぐる歴史年表など、もらった資料を読んだことを覚えている。むろん、中身はすっかり忘れている。
 ◆その後、勝山館は史跡整備が進められ、ガイダンス施設もできあがっており、そこへ行く。1996年は海岸べりの旧笹浪家住宅のところから、館へ向かう道を歩いて上がっていった。が、勝山館があるのは、上ノ国の平地がとぎれ、丘陵地が海に突き出す場所で、海沿いの平地では場所はないのでしょう。勝山館のある、両側が深い谷になっている丘陵の裏側にガイダンス施設が設けられている。旧笹浪家住宅のある地点からもう少し進み、道の駅ができている手前から入る車道が整備され、ガイダンス施設へ到達できるようになっている。雨もやんでいなかったので、史跡地あるきはしなかった。
◆もらってきたパンフレット類によると、割と早くに本拠地を松前に移し、城代を置いていたようである。コシャマインの蜂起の話は1996年当時も知っていたが(15世紀中頃なんですね)、武田信広と結びついていなかった。以下、ウィキ。

 応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市銭亀沢支所管内にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。
 製鉄技術を持たなかったアイヌは鉄製品を交易に頼っており、明や渡島半島から道南に進出した和人(渡党、道南十二館などを参照)との取引を行っていた。しかし1449年の土木の変以後、明の北方民族に対する影響力が低下すると明との交易が急激に衰え、和人への依存度が高まった。一方、安藤義季の自害により安藤氏本家が滅亡し、道南地域に政治的空白が生じた。
 そこにアイヌの男性「オッカイ」が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。
 1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁によって派遣された季繁家臣武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。

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雲楽
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男性
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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