人を幸せにする人になろう

それと

◆N先生の研究にもとづき自分の2系列を分析したもの。これは幸い、別にしていたので、データは 残っていた。2017年にひととおり作業をしていたが、今回、ひととおりやり直す。が、細かい点検はできていません。とにかく半径6に対して、主系列が接続部3で、副系列が2であることを、N先生の前で主張したかったもの。

22日の陵墓シンポ

◆22日はお通夜、昼間は大阪歴博へ発表に行かせてもらう。前日、関係者に伝え、迷惑をかけない ようにしたいが、どうなるかわからんと伝える。20日に陵墓シンポのデータをSDに移していたが、なぜだが年代観の最終画像を含め、作りかけていたパワポも消えていた。21日の晩に、23時関空着の娘を迎えに行き、みな夕食を食べていないので食事をして、紀美野の家についたのは1時頃。そこから再びパワポを作り始めるも、寝る。
◆22日朝、橋本まで実家の軽自動車ででかけ、南海高野線の特急に乗る。そのなかでパワポをなんとか作る。10:30の開会直後には着き、13時から20分の自分の発表をして戻る。消えたデータは、右の画像をもう少しブラッシュアップしたもの。大仙はみな5世紀中頃とみてますよ、ということを示す1枚です。

この1週間

◆鳥取のホテル、27日午前3時。
◆16日から20日の週。カミサンが出張などで母親の入院する病院にあまり行けないので、18日の水曜日に1人で行く。そして19(木)、調子を崩し、病院から出張中のカミサンのところに電話が入り、話をしたいというので、20(金)、教授会を途中で抜けさせてもらい2人で話を聞く。水曜日には、夕食をすべて食べ、たどたどしくも会話もできていたが、金曜日の様子はかなり悪い。
◆21(土)の直木先生の会については、もとより最初だけ顔を出し、あとは抜けて病院にと思っていたが、前日の様子から朝から那賀病院に詰めることにする。直木先生を偲ぶ会は欠席。この日、義理の母は亡くなる。前日の状況から、カミサンは東京の弟に強く来た方がよいと連絡をし、和歌山に向かってくれていたが、間に合わなかった。
◆22(日)お通夜、23(月)お葬式。本人の希望もあり、こじんまりとした家族葬となる。うちの子は21日に、即やってきてくれました。

1/5里から1/4里へ

◆ひとおおり黒崎さんの本を読む。里というのは、いつ登場するんでしょうね。大宝1里は300歩533m、和同に639mとなる。黒崎さんは都市の里と農村の里、といった言葉にしているが、いちいちどっちの里かを言わなければならん。大宝令以前の里が、いくら歩を1里としていたかも不明ですよね。7世紀に1000歩といった大きな開発が始まり、なんとか里という言い方が必要になることはよく理解できる。律令の知識として「里」を知っていても、倭の国土開発がそう規模が大きくならなければ必要ないわけだ。大仙の墳丘が360歩というのも気になる数字ですね。もしかすると1里なのかもしれないが(1歩1.5mですが)。
◆結論は、推古朝にはない、7世紀第2四半期頃に(根拠は百済大寺、飛鳥京Ⅱ期など)高麗尺50歩を単位とする地割が始まり、第3四半期に(根拠は後岡本宮など)高麗尺62.5歩を単位とする地割に転換するのだという。飛鳥寺が起点で、その北・西に方格がのび、川原寺あたりに展開するのは第3四半期頃、だったかな。難波京は125歩、孝徳朝にさかのぼるとすると、62.5歩の市街地方格が始まっていた、ということになる。
◆なんとなくイメージとしては、条里地割の規模でもある50歩方眼が、飛鳥や斑鳩で始まり、孝徳期に本格的な京を構想するなかで、同時に圃場の区画整理計画も立案され、50歩は田地の区画とし、市街地は62.5歩とする区別が考えられた、のではないか。時期差ではあるが、役割分担でもあるか。

難波宮北西部

◆前に豊臣大坂城についてまとめた時、かなり頑張って既往の調査をまとめた。その時の図を引っ 張り出してきて(オリジナル図でなく印刷物すきゃん)、重ねてみました。赤が内裏南門から宮城南門までの180歩を西・北に取った「推定難波宮域」です。
◆とはいえ、外郭の塀などが出ていれば、当然にみな言及しているし、高台で、地山検出で7世紀の遺構は確認できないということなのだろうが、赤線が通るところ、そこそこ掘っては来ている。

日韓の輪

◆こういう記事を見るとうれしくなる。国籍より大事なものが、1個人であるということだ。国籍が違うということで、とてつもなく違いがある、なんてことはこれっぽっちもないのである。同じ人間同士。
◆安倍晋三家。母親も大きな資産をもち、つかえる召使もいるんだろう。病気になっても、老いで弱ってきても、手厚くケアされる。アキエちゃんが介護するとも思えないし、シュートメも嫌う。が、われわれ50代、80代の父・母の介護をかかえております。いまの少子高齢化という現実を、普通の人は知っている。しかし首相には切実感はないのである。老々介護で親を殺すという追い詰められた気持ちは、ぜったいに理解できない。
◆収入が60兆円やのに、支出102億円。「節約」という言葉を知らない人ばかり。この点は、橋本君の方が、真剣にやってたんとちゃう。

2019年12月18日

◆今日は那賀病院に行くので車で出勤。8:30。9:30の会議のことを少し考えよう。仕事は一向に減らないので、書き出してみよう。
◆黒崎さんに飛鳥の方格地割の本を送っていただきました(日曜日の研究会の時に「送るわ」と)。ありがとうございます。昨日よりむさぼり読んでいます(まだ1/3)ですが)。なかなかに感慨深いですね。わたしはそこに言及したことはほぼありません。Iさんの研究で否定的である、とは書いた。が、まあだいたい同じような感覚。条里の前にあるやろ、と。斑鳩も。だけど、1/5里といった表現が、わかりにくいと思う。ぜんぶ歩に置き換えて書くべきでしょう。

博物館実習展

◆実は2018は準備しながら未完に終わった。今年の履修生のなかで、杉本キャンパス展の班を作 り、仕上げ、先週の10日(火曜日)に設営した。今年度は第2期の《大和川》展もやらんとあかん。

もう1枚出しておきます

◆中尾論集の原稿の京に関するところの図。
◆さてと、陵墓シンポ資料集の仕上げといくか。


2019年12月15日、都城制研究会

◆朝、コンビニで資料を刷り、職場へ。参考資料も準備していたが、出すのをやめた。それは前提 となる古墳時代の尺度の話。エッセンスの1枚図だけをA4で加えた。
◆前日の夜からパワポを作り始めるも、ノートPCのアドビが使えなくなっており、当日午前にせっせと作業。論文集はモノクロやし。図面、基本はカラーで作り(大きさは任意)、原稿にする場合は、版面割り付けを行い、実大で、モノクロで作り直す。カラー版を完成させていれば、パワポ図にも使える。が、まあ徹底していない。難波宮京も原稿のモノクロデータを、メッシュだけ色を つけるとか、まあ最低の調整にしたが、そういうカラーへの置き換えなどが、非常にめんどくさいわけです。
◆なんとか12:30に完成させ、会場に向かう。上野さんが1番手、わたしが後半でした。まあみなさん、古墳の尺度など、興味がない人たちなので、まずそのへんにびっくりする。これ、ヒストリアの投稿論文用に原稿化し始めたのはずいぶん前だが、いまのところ未完です。編集委員長になって投稿しにくくもなりました。でも出しとかないといけません。
◆で、本体の難波宮京の話。建築の上野さんも、土木と建築の違いを理解してくれました。中尾論集の時点でできなかったことも加えました。大阪府警本部の現場で検出された東西塀です。土曜にうちの図書館に行き、借り、国土座標であてはめ、作ってきていたものにあてはめました。その図を掲載します。中点からちょうど180歩ではなく、7.5歩手前になります。180歩位置は谷をまたぐ位置なので、東西塀がなかったということにはなりません。府警本部だけでなく、その西側の府・市の調査を点検してみるのも必要ですね。そういや、前に大阪城の時に集合図を作った記憶がある。引っ張り出せるかな。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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