人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
土佐稲荷神社 記事№6300
◆長堀に面して土佐藩蔵屋敷があった。土佐稲荷神社は、その当時からあったとのこと。夏の陣後の復興の木材需要に対し、土佐藩は土佐から木材を運び込む許可を得て、大阪に材木を運ぶ。このため、土佐藩蔵屋敷は中之島ではなく木津川に近い西長堀に設置されたのだという。セリ売りがここで行われ、長堀沿いに材木問屋が集中することになる。1960年代、おっちゃん・おばちゃんらのなかには、長堀でも西側がまだ埋め立てられておらず、木材が浮かべられていた景観を見た、ということである。
◆この蔵屋敷。有名な堺事件のあと、フランス兵を銃撃した土佐藩士が収容され、切腹する20人のくじ引きが行われたのだという。
◆この地は、後藤象二郎が早々に岩崎弥太郎に譲り、このため召し上げられず、三菱の屋敷が建てられたのだとか。三菱発祥の地なんだそうです。で、いまでも三菱グループの守護神だとか。
◆それで昭和9年といったか、まで行き、大阪市が学校用地として希望し、東半分を取得して女学校になり、西半分にこの土佐神社ができたんだろう。で、この学校が、いまの大阪公立大学生活科学部につながるわけだ。
◆この蔵屋敷。有名な堺事件のあと、フランス兵を銃撃した土佐藩士が収容され、切腹する20人のくじ引きが行われたのだという。
◆この地は、後藤象二郎が早々に岩崎弥太郎に譲り、このため召し上げられず、三菱の屋敷が建てられたのだとか。三菱発祥の地なんだそうです。で、いまでも三菱グループの守護神だとか。
◆それで昭和9年といったか、まで行き、大阪市が学校用地として希望し、東半分を取得して女学校になり、西半分にこの土佐神社ができたんだろう。で、この学校が、いまの大阪公立大学生活科学部につながるわけだ。
西長堀沿いを調べた
◆いわゆる堀江は、大阪の南西の区画。西を木津川が流れ、それにそそぐ道頓堀と長堀が掘られ、また南北の西横堀川も開削され、17世紀前半までにフレームはできあがる。しかし、川沿いに町人地ができるが内部は畑地のままで17世紀終わりまで行く。そこで河村瑞賢に第2期工事が命じられる。堀江の区画、北の長堀、南の道頓堀の間に、もう1本堀江川を通し町割りがなされた。これが堀江新地の開発で、川船とか茶屋株とか、芝居地とか、相撲興行の免許が下され、町場となるインセンティブ政策が行われた。しかし、町人は移ってきたが、なかなかこの地での商売はうまくいかず、たびたび奉行所に嘆願書が出され、町場として埋まっていくには時間を要したとのこと。
岸田外遊の経費はいくら
◆6月に台湾、9月にイタリアに行くことになった。円安でおそるべき経費がかかる。日本人研究者はなかなか海外発表に行けないのだとか。プレゼンスの大きな交代ですね。一方で、史上最高の収益を上げている企業。
◆岸田君のGW外遊は、いったいいくらかかっているのだろう。湯水のように金がかかっても、節約しようという気持ちはわずかなんでしょうね。自腹じゃないから。
◆岸田君のGW外遊は、いったいいくらかかっているのだろう。湯水のように金がかかっても、節約しようという気持ちはわずかなんでしょうね。自腹じゃないから。
2024年5月13日
◆夫婦そろって土日出勤。日曜日も朝から晩まで仕事。中四研論文の仕上げをしておりました。最後近くまでは到達したが、終わらなかった。あと半日くらいの作業でしょうか。
◆月曜日は、いつも火曜日の授業準備だが、いま13時前、いまのところゼロ。論文を仕上げる時間は取れません。メールを処理したりしてました。『ヒストリア』6月号の校了をめざしていますが、やっと広告が入り、なんとか終われそう。今日はこのあと、学情で未整理古文書の整理作業の打ち合わせ、16時から来客。やることは山積しているが、時間なし・・・。
◆あせらず、コーヒーでも入れ、飲みますわ。
◆月曜日は、いつも火曜日の授業準備だが、いま13時前、いまのところゼロ。論文を仕上げる時間は取れません。メールを処理したりしてました。『ヒストリア』6月号の校了をめざしていますが、やっと広告が入り、なんとか終われそう。今日はこのあと、学情で未整理古文書の整理作業の打ち合わせ、16時から来客。やることは山積しているが、時間なし・・・。
◆あせらず、コーヒーでも入れ、飲みますわ。
泉佐野市禅興寺
◆近つの四天王寺展の図録をいただいた。百済大寺の軒丸瓦の笵2つがともに樟葉平野山に移動し、四天王寺用に焼成され、その後、うち1笵が海会寺で用いられる、のかな。これはよく知られている。
◆が、もうひとつ先がある。同文瓦が泉佐野市の禅興寺で出土している。おそらく海会寺に行った笵と同笵なのだろう。確か、禅興寺の全体がわかる軒丸瓦は風化していて(写真を見た記憶がある。また実物をどこかで見たような気もするが忘却)、識別が確かにできたかどうかは覚えていない。
◆うちの卒論で、『和泉市史紀要』(2006)に掲載してもらった論文から、挿図1点を紹介しておきます。で、池田寺Ⅰ式は花弁がとがっていることから、山田寺のものでなく、海会寺および禅興寺で用いられた百済大寺式の二次笵なんだろうと考えた(と思う)。
◆が、もうひとつ先がある。同文瓦が泉佐野市の禅興寺で出土している。おそらく海会寺に行った笵と同笵なのだろう。確か、禅興寺の全体がわかる軒丸瓦は風化していて(写真を見た記憶がある。また実物をどこかで見たような気もするが忘却)、識別が確かにできたかどうかは覚えていない。
◆うちの卒論で、『和泉市史紀要』(2006)に掲載してもらった論文から、挿図1点を紹介しておきます。で、池田寺Ⅰ式は花弁がとがっていることから、山田寺のものでなく、海会寺および禅興寺で用いられた百済大寺式の二次笵なんだろうと考えた(と思う)。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。