人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
白馬岳
◆で白馬岳。翌朝、猿倉までバス、白馬岳2932mに登る。そこから撮影した黒部川の写真を記憶している。このマップを見ていて、栂池に下りたような気もするが、定かではない。糸魚川に出て、北陸線で京都に戻る。
◆2日連続で3000m弱に登った。体力的にピークだったんでしょう。そうか、まだ3000m級には登ってないな。でももうこれからはダメですな。
スタジア測量
◆手元に、近藤義郎先生本の『発掘調査の手びき』初版がある(高校の時に買った自分の本はどこへ行ったのやら)。
◆これでトラバース測量なるものを学ぶ。で、事例として挙がっている牧野車塚古墳というものも知る。古墳を測量するのに、トランシットで角度を測り、鋼尺で距離を測り、それを内業で誤差を配分する。丁瓢塚古墳の測量の時にこれをやった。研究室のトランシットを借りたんでしょうね。O助手から「貸したるから『史林』に報告を書け」といわれたように記憶する。とはいえ、1度出撃してそれをやり、本戦は平板だけだったのかな。白マイラーだったように思う。誤差配分の計算はできたとして、白マイラーに100分の1で杭位置を落としたんだろうか。どうやって正確に落とすんでしょうね。原図を引っ張り出せばいのだが、どこにあるのやら。
◆自分がやっている測量は、200m級でも適当です。開放トラバース。1㎝誤差が出ても「歴史は変わらん」と。1㎝程度ならいいのだが、時には3㎝程度異なることもある。ままよ。
◆でスタジア測量。やったことも、おぼろげにある。レンズをのぞいてスタジア線間の間隔を読み取ればいいのだと。いつごろ、どこでやったのかな。
◆『発掘調査の手引き』における牧野車塚古墳を例とした測量の説明。平板の横にトランシットを立てて(2mくらい離れているのがいいのだそうだ)、その位置を平板上の紙にも落とす。測点をレベルで出すのは同じ。測点が決まれば、アリダードで細線で直線を引いておき、トランシットによるスタジア測量で算出した距離を、紙に落としたトラ位置から、その距離をこの細線上に求めて(交差させて)点を落とす、ということのよう。
◆会津大塚山古墳の測量の時は、WILDのRK1というものにお目にかかった。これエスロンテープを張り距離を測る必要がないマシン。アリダードの物差しが動くようになっていた記憶がある。
◆これでトラバース測量なるものを学ぶ。で、事例として挙がっている牧野車塚古墳というものも知る。古墳を測量するのに、トランシットで角度を測り、鋼尺で距離を測り、それを内業で誤差を配分する。丁瓢塚古墳の測量の時にこれをやった。研究室のトランシットを借りたんでしょうね。O助手から「貸したるから『史林』に報告を書け」といわれたように記憶する。とはいえ、1度出撃してそれをやり、本戦は平板だけだったのかな。白マイラーだったように思う。誤差配分の計算はできたとして、白マイラーに100分の1で杭位置を落としたんだろうか。どうやって正確に落とすんでしょうね。原図を引っ張り出せばいのだが、どこにあるのやら。
◆自分がやっている測量は、200m級でも適当です。開放トラバース。1㎝誤差が出ても「歴史は変わらん」と。1㎝程度ならいいのだが、時には3㎝程度異なることもある。ままよ。
◆でスタジア測量。やったことも、おぼろげにある。レンズをのぞいてスタジア線間の間隔を読み取ればいいのだと。いつごろ、どこでやったのかな。
◆『発掘調査の手引き』における牧野車塚古墳を例とした測量の説明。平板の横にトランシットを立てて(2mくらい離れているのがいいのだそうだ)、その位置を平板上の紙にも落とす。測点をレベルで出すのは同じ。測点が決まれば、アリダードで細線で直線を引いておき、トランシットによるスタジア測量で算出した距離を、紙に落としたトラ位置から、その距離をこの細線上に求めて(交差させて)点を落とす、ということのよう。
◆会津大塚山古墳の測量の時は、WILDのRK1というものにお目にかかった。これエスロンテープを張り距離を測る必要がないマシン。アリダードの物差しが動くようになっていた記憶がある。
小野山先生の訃報
◆11月29日にお亡くなりになったとの連絡を受ける。昭和6年の生まれ、佐原さんが7年で、タナカタクさんが8年だったかと。ほぼ親世代です(S7)。
◆1983年に入学するも専攻分属は3回生から。1・2年次の教養科目に考古学の授業はないが、1983年の物集女車塚古墳の調査の時、先生が来られたと思う。小林行雄先生も(小林先生を見たのはこれが最初で最後でした)。都出先生も、同じ夏に長法寺南原古墳を発掘していて、みなで見学に行ってお見かけした。
◆次は3年生になった1985年なんだろう。概論だけだったか、いわゆる研究の授業もあったのか、覚えていない。前年までは演習も洋書講読も小野山先生だったと聞いている(年を取ると確からしさが失われる)。それが1985年から、前年着任の山中先生が演習も洋書講読も担当となる。4回生では卒論演習を受けた。卒論演習の12月の授業で、英文が配られ読解せよ、と。これが大学院入試の予行演習だったのだと、あとで知る。2月だったかの大学院入試に失敗し、「英語がね~、12月の時はできてたんだけどね~」とのお言葉。
◆3回生の時、近藤義郎先生からの楯築発掘への参加者募集の紙が
掲示される。それを見て小野山先生のところに「行きたい」と言いに行ったな。それと、1989年の文学部博物館のオープニング。椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡の展示準備の最終日、O助手・H助手・Mさんによる展示設営を手伝っていて、終わったあと、日仏会館でおいしいものをごちそうになった。
◆おこられたのはD1の時。武藤誠先生から頼まれ兵庫県史の嘱託になり(相談すべきですよね)、呼び出され「君はなんでドクターに上がったのか」と怒られた。どう答えたのかは覚えていない。あれで、専攻生としてはハズレになったのでしょう。で、その年にナブンケンの募集があり、まず声をかけられた。すぐに返事はしなかったが、そのあと受けますと伝えた。
◆先生と撮った写真はなさそうだ。1枚出しておく。これは椿井大塚山古墳の測量の時なので1988年?、陣中見舞いに来られた時のもの。小林行雄の測量の方法を教えていただいたのは、たぶんこの時。『発掘調査の手引き』には書いてあるのでは。アリダードでのぞくとして、テープで距離を測るのとは違うやり方。写真は差し入れのチョコを撮影したもの。
◆あんまりよくできた弟子ではなかっただろう。著書をお送りしたが、ざっとでも目を通していただいたのだろうか。それが気になります。ご冥福をお祈りします。
◆1983年に入学するも専攻分属は3回生から。1・2年次の教養科目に考古学の授業はないが、1983年の物集女車塚古墳の調査の時、先生が来られたと思う。小林行雄先生も(小林先生を見たのはこれが最初で最後でした)。都出先生も、同じ夏に長法寺南原古墳を発掘していて、みなで見学に行ってお見かけした。
◆次は3年生になった1985年なんだろう。概論だけだったか、いわゆる研究の授業もあったのか、覚えていない。前年までは演習も洋書講読も小野山先生だったと聞いている(年を取ると確からしさが失われる)。それが1985年から、前年着任の山中先生が演習も洋書講読も担当となる。4回生では卒論演習を受けた。卒論演習の12月の授業で、英文が配られ読解せよ、と。これが大学院入試の予行演習だったのだと、あとで知る。2月だったかの大学院入試に失敗し、「英語がね~、12月の時はできてたんだけどね~」とのお言葉。
◆3回生の時、近藤義郎先生からの楯築発掘への参加者募集の紙が
◆おこられたのはD1の時。武藤誠先生から頼まれ兵庫県史の嘱託になり(相談すべきですよね)、呼び出され「君はなんでドクターに上がったのか」と怒られた。どう答えたのかは覚えていない。あれで、専攻生としてはハズレになったのでしょう。で、その年にナブンケンの募集があり、まず声をかけられた。すぐに返事はしなかったが、そのあと受けますと伝えた。
◆先生と撮った写真はなさそうだ。1枚出しておく。これは椿井大塚山古墳の測量の時なので1988年?、陣中見舞いに来られた時のもの。小林行雄の測量の方法を教えていただいたのは、たぶんこの時。『発掘調査の手引き』には書いてあるのでは。アリダードでのぞくとして、テープで距離を測るのとは違うやり方。写真は差し入れのチョコを撮影したもの。
◆あんまりよくできた弟子ではなかっただろう。著書をお送りしたが、ざっとでも目を通していただいたのだろうか。それが気になります。ご冥福をお祈りします。
松木武彦さん逝去
◆しばらく前から患っておられたのですね。友人から聞いたのは1年前のことで、もうずいぶんと進行した段階でした。9月22日にお別れの会があり、岡山に出向きました。久しぶりに松木さんの顔を目にしました。岡山駅で会った友人からは、残る時間でやることを決め、それを2023年度末できっちりと仕上げられた、との話を聞きました。自分ならどうだろう。そういう覚悟をもって、やっておくべき仕事に立ち向かうことができるのだろうか。
◆松木さんとお会いしたのは1985年秋の楯築第5次調査でした。わたしは3回生で、松木さんはM1だったのだろう。阪神タイガースが日本一になったのがこの調査期間。松木さんがちらし寿司を作り、卵とノリで黄色と黒の帯を盛り付けていました。楯築の時の写真を見直すと、松木さんの写っている写真もある。吉備津神社で撮ったものでいいものなんだけれど、大勢が写っているので控えます。1点だけ、岡山大学の宿舎の写真を上げておきます。
◆そして1989年秋の雪野山で再びご一緒する。以後、松木さんが多くの業績を上げられたことはいうまでもありません。一方で、その後にそう多く接点があったわけではない。勝負砂は2007年なんですね。Sさんに誘ってもらって見せていただきました。それと2010・11・12の歴博共同研究。
◆2年上のほぼ同じ世代。独特の語り、でした。朴訥ながらはっきりと、そして説得力がある。62歳は若すぎますよ、松木さん。書こうと思いつつ、ついつい書けませんでした。
◆そして1989年秋の雪野山で再びご一緒する。以後、松木さんが多くの業績を上げられたことはいうまでもありません。一方で、その後にそう多く接点があったわけではない。勝負砂は2007年なんですね。Sさんに誘ってもらって見せていただきました。それと2010・11・12の歴博共同研究。
◆2年上のほぼ同じ世代。独特の語り、でした。朴訥ながらはっきりと、そして説得力がある。62歳は若すぎますよ、松木さん。書こうと思いつつ、ついつい書けませんでした。
2025年12月7日 中四国前方後円墳研究会に行けず
◆12月7・8日の山口大学で開催された中四国前方後円墳研究会。行くつもりであったが、どうにも首がまわらず、断念する。
2024年11月29日 大仙古墳の見学会に参加
◆宮内庁の実施している大仙古墳北西部の工事予定箇所の確認調査、その見学に参加した。17学会から42名が参加。過去2回の内堤の調査には参加していない(これは工事にともなうものではない)。今回は工事計画を立てるための従来からやっていた調査である。計7か所の調査区があった。
◆写真は中堤の外側である。手前は第3濠。堤の斜面が2段になって
いるのがなんとなくわかるでしょうか。下が本来の堤で、上が後世のかさ上げであることが判明した。それは、7か所のうちの1か所の調査区で、この堤を深く掘り込む調査がなされ、上の2mがあとからの盛土であることが確認されたのである。ここで検出された地山面、つまり本来の?堤の高さは、中堤内側の第2濠の水面に近い。写真に戻ると、汀に葺石材が多数集積しているのが見えますね。
◆で、この手前の第3濠だが、渡り土手調査区での直交方向の壁面から、濠底が後世に掘り込まれている様子がわかった(写真は出しませんけど)。
◆今回4か所掘っているのは、さらに外側の、第3濠の外側斜面。つまりは宅地や道路との境界に面した斜面である。うち1か所では、ゆるゆると上がる地山を確認。濠側の裾で葺石か?と残している石が4石ほどある。別のトレンチでは転落した埴輪片がまとまって出土し、外縁に埴輪を立てていたと考えていいのではないか。
◆写真は中堤の外側である。手前は第3濠。堤の斜面が2段になって
◆で、この手前の第3濠だが、渡り土手調査区での直交方向の壁面から、濠底が後世に掘り込まれている様子がわかった(写真は出しませんけど)。
◆今回4か所掘っているのは、さらに外側の、第3濠の外側斜面。つまりは宅地や道路との境界に面した斜面である。うち1か所では、ゆるゆると上がる地山を確認。濠側の裾で葺石か?と残している石が4石ほどある。別のトレンチでは転落した埴輪片がまとまって出土し、外縁に埴輪を立てていたと考えていいのではないか。
2024/11/28 『温故知新』8
◆で1980年、2年生の夏に長尾タイ山古墳群の発掘に行く。年が明けて1981年正月に前期前方後方墳の経塚山古墳の測量をやったと記憶する。
◆森之宮移転にむけて、少しずつモノを少なくしている一環でした。
2024年11月24日 で塚森古墳の調査
◆この記事、ある程度書いたのにデスクトップPCがクラッシュ。このPCも怪しいか?。
◆塚森古墳の基準点測量。塚森古墳の原稿担当のK君に、墳丘
周囲の図面のチェックをまずしてもらう。周囲の図面はぜんぶこっちで書いたが、K君がトレースするのにわからないところがあるというので、畔やら水路やらについて、トレースできるよう図面に追記や注記をしてもらう。原図として失格ですね。その点検に午前いっぱいかかる。こっちは、基準点測量を終えると、ボーリング地点を落とすのに適切な測量基準点にマシンを据えて、先行的にボーリングをやってみた。その感触では小方部はなく円墳ではないか、と・・・。
◆そして午後、こっちはトータルステーションの読み手にまわり、K君にボーリングとその位置落としをすべて任せる。合計、放射方向に6測線。ボーリングは、経験してみないとどんなもんか、わかりません。耕土が30㎝くらいあって床土が固い。しかしそれは抜ける。その先、周溝堆積のあるところでは、す~と落ちていく。むろんそう思ってはいるのだが、実際のところはわからないという面もある。
◆まあこれでやれることはやった。それにもとづき、今書き込むことができる記述をすればよい。
◆塚森古墳の基準点測量。塚森古墳の原稿担当のK君に、墳丘
◆そして午後、こっちはトータルステーションの読み手にまわり、K君にボーリングとその位置落としをすべて任せる。合計、放射方向に6測線。ボーリングは、経験してみないとどんなもんか、わかりません。耕土が30㎝くらいあって床土が固い。しかしそれは抜ける。その先、周溝堆積のあるところでは、す~と落ちていく。むろんそう思ってはいるのだが、実際のところはわからないという面もある。
◆まあこれでやれることはやった。それにもとづき、今書き込むことができる記述をすればよい。
2024年11月24日 塚森古墳
◆今年度、われわれのやった宿禰塚古墳と塚森古墳の測量調査の報告書が相生市で予算化され、院生らの分担を決め、このあいだ、第1回の読み合わせをやった。
◆このため、宿禰塚古墳については、図面合成や世界測地系への変換を再度チェックして微修正をしたり。が、塚森古墳の方は、そもそも国土座標に位置付ける測量が残っていたので、ついにやらざるをえず、24日に出撃することにした。塚森古墳は帆立貝で小方部が削平されているとみられるものだが、読み合わせをしていると、そのへん、まったく手がかりがないので記述のしようがない。で、国土座標への変換のための測量に行くのだから、ついでに帆立貝の小方部を確かめるボーリング調査を組み込むことにし、前日に相生に入り、朝から動くことにした。
◆朝、まずは宿禰塚古墳に立ち寄り、読み合わせ時にチェックが必要と考えられた点、テラス面の状況や葺石の有無についての確認に行く。
◆朝、まずは宿禰塚古墳に立ち寄り、読み合わせ時にチェックが必要と考えられた点、テラス面の状況や葺石の有無についての確認に行く。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。