人を幸せにする人になろう

2024年11月23日 大阪の歴史演習

◆今年度から科目担当ではなくなる。担当は近世史のSさん。なので授業としては、1回分の現地見学をもつのみ。
◆河内国分13時集合。玉手山に上がる時間的余裕はなく、国分の旧道を歩いて松岳山古墳に行き、対岸に移動して高井田横穴と高井田山古墳、最後は資料館というコース。今年は資料館に連絡し、横穴のガイドをお願いし、鍵を開けてもらい、横穴のなかに入ることができました。館長さんにたいへんお世話になりました。
◆古墳を見てもらうのが趣旨だが、資料館の企画展では大和川の付け替えの展示をやっており、みなさん、これについても興味深く見入っていた。15:30終了予定が16時過ぎとなり、解散する。
◆そのあと相生へ移動する。

杉本駅前にマンション

◆このあたり一帯は畑地だったが、昭和はじめに区画整理され、今日までにほぼ宅地化する。そのなかで、貸農園的に畑地が残っていた一画があったが、ついにここもマンションになった。これは学生用ワンルームでなく、分譲用のよう。

2024年11月18日早朝

◆カミサンが後期の月曜日は1限があるので、朝5:58分発の急行に乗っています。職場に着くのは6:55。いま13時。もう6時間は仕事をした。
◆帰るのが20時頃と早くなり、帰っても寝るだけなので、仕事をこなすには朝を早くすることですね。

2024年11月17日四校交流会@奈良女

◆午前、鶴橋ドトールで仕事をする。ちなみに天王寺デリカフェが10月31日に閉店になっていた。残念。
◆で、奈良に向かう。四校交流会のセッティングありがとうございました。ちょっと例年より人は少なめか。うちの院生1人は別のシンポに、研究生はまた別の研究会に出ていました。
◆懇親会は奈良女のラウンジ。料理やお酒を購入してくれており、それをならべました。府大I氏もかけつける。

2024年11月2日 ハイハイタウンのベトナム料理屋

◆歯医者に行っています。2本治療、もう1本やって終わりになる予定。鶴橋です。だいたい土曜日の19時受付。
◆この日、上本町に移動し、ハイハイタウンでベトナム料理屋に行きました。【追記】前にも書いてましたね。年寄りになると、すべて忘れていきます。

さらにさかのぼる丁瓢塚

◆さらにさかのぼる姫路市丁瓢塚関係。国土座標で測ったものを、報告する時に、墳丘主軸にあわせで配置したものと思う。方眼紙にトレぺを貼り付けている(左)。これがトレースの下図なのかな。捨てました。
◆で、もう1枚(右)は、『史林』の原稿。岡村さんがいろいろ指示してくれている。これは残した。

1989年3月権現山51測量図トレース

◆A3縦の大きなファイルが3冊ある。うち1冊には原図類が入れてあるので、これは保存。残る2冊を見ると、いくらか資料が入っているが、保存の必要のないものが多く、残すものは最初の1冊に綴じ込み、ファイル2冊は捨てることにした。
◆このファイル整理でできたもの。まず権現山51号墳の、トレぺでなく方眼紙の裏にトレースしたもの。1989年3月の発掘時、われわれはスタートは測量チーム。発掘はそれと並行して着手。測量が終わった段階で、宿舎でざっとトレースしたものなんだろう。これは不要なので捨てる。

正道官衙シンポ

◆案内をいただきましたので紹介します。

2024年11月6日 信太貝吹山

◆玉3のあと、午後は和泉市に向かう。
◆信太貝吹山も測量開始時は局地座標。2000年00年代はじめに業者が測量しており、その時の図と座標がまずは提供された。が、任意の局地座標。周囲の住宅地など広く図化されており、われわれの墳丘測量は、この時の座標でやることにした。道路沿いの鋲の局地座標データを使って、墳丘再測量用の基準点を振り込んだ。が、古い鋲ってやつが、ほんとに2000年00年代はじめの業者測量の時のものか不安が残る。おまけに、その後、貝吹山古墳を市が買い取って、その整備のための調査をやり、その施工図面が作成されており(座標なし)、その図の高さを見るとあわない・・・。われわれが墳丘測量に使った2000年00年代はじめの図における道路の高さと、けっこうなずれがある。困ったものだ。やはり局地座標は限りなくメンドウがついてまわりますね。
◆今年の4月にやった相生市の塚森古墳もそう。着手前から近くの基準点をさんざん聞いたのだが、結局は「ない」ということで局地座標となる。が、終わってから相生市の設置した基準点の成果簿が出てきた。いま、国土調査などで、市のしかるべき部局に問い合わせれば、道路沿いの基準点は出てくる。ということを最初にもっと強く言うべきでした(なので、これも再出撃が必要)。
◆この日の信太貝吹山の国土座標測量は、わりあいスムーズに終わる。和泉市設置の2点の基準点をもとに、再測量の際に墳丘に振り込む基準点とした、2000年00年代はじめの測量時のもの(と思われる)2点について、国土座標を測り込んだ。さあ、高さはどうしようか。

2024年11月6日 玉3の国土座標

◆玉手山3号墳のある柏原市老人福祉施設の中庭に保存した古墳があり、玉3の測量杭のデータを求められた。が、2001年の測量の時は、研究費がなく局地座標で測量した。その後、玉1の報告書を作る際、国土座標の基準点測量を業者にやってもらった。玉1は柏原市の測量図があるので改めて測量はせず再トレースしたのだが、これも局地座標。そこで基準点測量をしてもらい、それをもとに、旧図にあるコンクリートなどの不動点を、国土座標に落とし、1号墳と2号墳の測量図を位置付けた。
◆業者にやってもらった基準点設置は、玉1と玉3の福祉施設内に各1点。それで1号墳の測量をしたわけだが、今回の依頼に対しデータを見直したが、玉3の図を国土座標に落とし込む測量をやったかどうかが不確か。それ以前、測量から間もなく、『玉手山古墳群の研究』に測量概報を掲載してもらった際に、国土座標に位置付けたと書いており、図に国土座標を切っている。が、これが何によるかがさっぱりわからず、また座標値を見ると間違っているとしか思えない・・・。
◆で、話を戻して業者による基準点設置後だが、玉1に続き、玉3についても国土座標への換算測量をやったと思い込んでいたが、どうもそうではないらしい。メモが出てきて、国土座標らしき数字も見えるが、これも何かわからない。
◆これでは依頼には応えられない。ちゃんとやった方がいい。いまGPS測量で座標が出せる10万円くらいのマシンがあるらしい(これ欲しい!)。ほんとは業者にやってもらうか、こういうマシンで、測量杭に国土座標を落とすのがよいのだが、すぐは無理。なので出撃することとした。さいわい水曜日の2限の授業がなくなったので、研究生K君と現地に向かう。
◆玉1基準点をバックサイト。玉3のある施設内に設置した基準点に本体を据える。玉3墳頂部の杭にそこから飛ばせればいいのだが、発掘から長く経過し、樹木がうっそうと茂り、杭はわからないし、そもそも見えない。なんとか墳裾あたりと後円部斜面の2本の測量杭を見つけ、それを国土座標で測り込んだ。近い2点なので、それだけで回転させるのは怪しいが、いまは仕方なし。なんとかそれをやり、柏原市の調査区も測り込んで、昼に撤収した。
【追記】右図。だいたいよさそうだが、2号と3号図の境界の、やすらぎ入口付近がややずれる。2号墳の測量が正しいだろう。もうちょっとやる必要がありそうだ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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