人を幸せにする人になろう

地蔵堂丸山古墳の埴輪

◆図書館で、貝塚市の指定文化財の展示をやっているとのチラシを見たので、足をのばす。地蔵堂古墳群の、1号墳と3号墳、そして丸山古墳の資料がならぶ。円筒埴輪を見て、これいつ頃なんだろうと眺めていました。

貝塚を歩く

◆もう職場に行くことはやめる。貝塚のまちあるき。前に願泉寺界隈を歩いたことがあるが、今回は、南海貝塚駅の西側を歩く。途中、昼ごはんもいただく。泉州の水ナスも注文しました。

岩橋善兵衛1756-1811

◆以下、ウィキ。

 現在の大阪府貝塚市脇浜新町の商人(魚屋)の家に生まれた。眼鏡の玉磨きを家業として独立し、自然科学に興味を持ち易学者・皆川淇園などと交流した。渡来品の研究を行い寛政2年(1790年)頃、望遠鏡を作り評判を得た。その後も望遠鏡を製作し、多くの天文学者、大名に用いられた。岩橋家はその後4代にわたり望遠鏡を製作した。
 自らレンズを磨いて製作した望遠鏡は当時の日本の天文学者・高橋至時や間重富に用いられたほか、大名たちにも用いられた。ほかに、太陽・月・星の運行を観測し、干満を計算する「平天儀」を製作し、『平天儀圖解』を著した。
 貝塚市には貝塚市立善兵衛ランドが設立されている。

◆まあ、けっこう大きい望遠鏡を据えた、天文中心の施設。きっかけは善兵衛さんで、1室はその展示にあてられているが、現在の活動の中心は、子供たちに望遠鏡で観察してもらうことのよう。

2024年5月26日 泉州

◆翌日の月曜日に大歴の委員会があって総会の資料原案を作らないといけないのと、1546から学内研究費のプレゼンがあるので、日曜日は職場で仕事と考えていた。が、カミサンが、それなら午前はでかけて、午後仕事をしたら、というので、まず近つに行く。博物館は945からとなっているが、展示施設は10時から。これはまぎらわしい。
◆四天王寺の話。瓦が中心なのだが、頭に四天王寺の創建ののこととか、その後の四天王寺の略年表などがほしいところ。まあ、いきなりマニアックな瓦でスタートする。
◆そのあと貝塚の善兵衛ランドに行く。

2024年5月25日 姫路 播磨学講演会

◆西長堀から戻り、播磨学のパワポの作業をする。まあ20時まで。翌日、大阪駅と姫路のドトールで最後の作業を行う。
◆高校生の時以来、みゆき通りを北上し、会場であるイーグレひめじに、約束通り1310にたどりつく。
◆14時から1535分までしゃべる。ちょっと失敗かな。この全10回の講演は本になるのだとか。そう長い文章ではない。せっかくなので、播磨の前方後円墳をやっつけようか。
◆会場からは姫路城がバツグンによく見える。とくにこの日は雲ひとつない快晴でした。

なにかと

◆まあ学ぶことはなんでもある。紙座について知りたい。大阪の1960年代までは残っていた、江戸時代以来の、ここは材木座とか鰹座とか、瓦座とか、そういう商売別の集中地域の、わかりやすい図を作ってみたいな、とか。長堀とか大阪の町ができ上っていくプロセスはまとめたが、そういうのが失われていく経過ですね、川が埋め立てられ、橋が撤去されるプロセスをまとめてみたいとか、いろいろ思うところあり。

長堀にかかる橋

◆とにかく、かつての橋ひとつひとつに、その名前の由来があり、長堀を埋めたいまは中央分離帯となっている緑地を東に歩いていく上で、説明があった。
◆で、ここ富田屋橋の上で、間重富(長涯)が天文観測を行ったのだとか。寛政暦完成後、間は大阪に戻り、商売のかたわら天文観察を続けたわけである。面白い。

阿弥陀池

◆百済から伝えられた仏像を、物部おこし?が堀江に捨てた。それがここから見出され、それがいまの長野県善光寺の本尊という、これは著名な話。その阿弥陀仏が見つかった場所というのが、阿弥陀池なのだそうである。

西長堀アパート

◆以下、ウィキ。 竣工は1958年だそうです。

 東京都に造成された晴海団地に存在した晴海団地高層アパートと並び、日本住宅公団による都市型高層住宅の第1号 である。日本住宅公団は、当時、将来的に住宅の高層化が必要とされると考え、これから建設が進むであろう高層住宅の試金石として、晴海団地高層アパートとともにこの西長堀アパートを建設した。
 外壁には無数の小窓が整然と並び、オフィスビルを思わせる外観となっている。初期の家賃は2DKで16,500円であり、当時の大卒初任給の1.4倍であった。この住宅には著名人の居住も多く、作家の司馬遼太郎や女優の森光子、当時プロ野球選手だった野村克也や作詞家の石濱恒夫などが居住していた。

土佐稲荷神社 記事№6300

◆長堀に面して土佐藩蔵屋敷があった。土佐稲荷神社は、その当時からあったとのこと。夏の陣後の復興の木材需要に対し、土佐藩は土佐から木材を運び込む許可を得て、大阪に材木を運ぶ。このため、土佐藩蔵屋敷は中之島ではなく木津川に近い西長堀に設置されたのだという。セリ売りがここで行われ、長堀沿いに材木問屋が集中することになる。1960年代、おっちゃん・おばちゃんらのなかには、長堀でも西側がまだ埋め立てられておらず、木材が浮かべられていた景観を見た、ということである。
◆この蔵屋敷。有名な堺事件のあと、フランス兵を銃撃した土佐藩士が収容され、切腹する20人のくじ引きが行われたのだという。
◆この地は、後藤象二郎が早々に岩崎弥太郎に譲り、このため召し上げられず、三菱の屋敷が建てられたのだとか。三菱発祥の地なんだそうです。で、いまでも三菱グループの守護神だとか。
◆それで昭和9年といったか、まで行き、大阪市が学校用地として希望し、東半分を取得して女学校になり、西半分にこの土佐神社ができたんだろう。で、この学校が、いまの大阪公立大学生活科学部につながるわけだ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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