人を幸せにする人になろう

大歴考古部会12月例会

◆おもしろそうですね。

浮き沈み

◆このところ浮き沈みが・・・。やらないといけないこともあるが、研究的なものにも走ってしまう。ちょこちょこ前方後円墳をいじるが、ことごとくうまくいかない。落ち込みます。しばらく遠ざかりたい気になる。で、業務的なこともさぼるので、これもまた精神的な負担になる。うまくバランスが取れない。
◆いまの大阪の歴史文化研究拠点の仕事に邁進することですね。なかかな、鉄の仕事に入れません。

2024年12月15日 トヨタ産業技術記念館

◆前日、カミサンが名古屋に行き、ここに寄る。動態展示わんさかで規模も大きく、1時間半で見て回れなかったというので、再出撃することにした。
◆11時すぎに到着。そこから閉館時間の17時近くまで楽しみました。紡績と織物、そして後半は車、企画展示室で江戸時代の測天量地の展示を見る(最終日)。綿から糸を作ること、ガラ紡というもの、撚りをかけるということが、すべて実演で学べます。

白馬岳

◆大学院生の時だったのか。考古研の信州旅行に学部生に同行した。解散後、八ヶ岳をめざした。メジャーな登山口はどこだろう。いま調べると、美濃戸口という名前に記憶がある。美濃戸口までバス、赤岳2899mに登り、清里に下りた。その時の八ケ岳のマップもあるはずだ。そこから小海線、中央本線で白馬駅に向かう。
◆で白馬岳。白馬駅では宿泊できるとあったので、1泊。翌朝、猿倉までバス、白馬岳2932mに登る。そこから撮影した黒部川の写真を記憶している。このマップを見ていて、栂池に下りたような気もするが、定かではない。糸魚川に出て、北陸線で京都に戻る。
◆2日連続で3000m弱に登った。体力的にピークだったか。そうか、3000m級には登ってない!。

スタジア測量

◆手元に、近藤義郎先生本の、『発掘調査の手びき』初版がある。高校生の時に買ったような気がするが、自分の本はどこへ行ったのやら。
◆これでトラバース測量なるものを学ぶ。で、事例として挙がっている牧野車塚古墳というものも知ったわけだ。100mの古墳を測量するのに、トランシットで角度を測り、鋼尺で距離を測り、それを内業で誤差を配分する。
◆記憶にあるものでは、丁瓢塚古墳ではこれをやった記憶がある。ということは、研究室のトランシットを借りたんでしょうね。そうか思い出したぞ。O助手から、「貸したるから『史林』に報告を書け」といわれたように記憶する。とはいえ、1度出撃してそれをやり、本戦は平板だけだったのかな。また、白マイラーだったように思うが、計算ができたとして、100分の1で、杭位置をマイラーに落としたんだろうか。角度と距離が計算上出ても、それをマイラーに正確に落とすのは困難そうですね。原図を引っ張り出せばいのだが、どこにあるのやら。
◆自分がやっている測量は、200m級でも適当です。開放トラバース。1㎝誤差が出ても「歴史は変わらん」と。1㎝程度ならいいのだが、時には3㎝程度異なることもある。ままよ。
◆でスタジア測量。なんか、古~い言葉の記憶しかありません。聞いたことがあるなと。やったこともあることも、おぼろげながら。距離を測らんでもいい、レンズをのぞいたスタジア線間の間隔を読み取ればいいのだと。どこでやったのかな。
◆『発掘調査の手引き』における牧野車塚古墳を例とした測量の説明では。平板の横にトランシットを立てて(2mくらい離れているのがいいのだとも)、その位置を平板上の紙にも落とす。測点をレベルで出すのは同じ。測点が決まれば、アリダードでだいたいの位置に細線で直線を引いておき、トランシットのスタジア測量で算出した距離を、紙に落としたトラ位置からその距離を、この細線上に求めて点を落とす。ということのよう。
◆会津大塚山古墳の測量の時、WILDのRK1というものにお目にかかった。これエスロンテープを張り距離を測る必要がないマシン。アリダードの物差しが動くようになっていた記憶がある。

小野山先生の訃報

◆11月29日にお亡くなりになったとの連絡を受けました。昭和6年の生まれ、佐原さんが7年で、タナカタクが8年だったかと。ほぼ自分の親世代です(S7)。
◆1983年に入学した頃は、専攻分属は3回生からで、教養科目は教養の先生がやっていたので、1・2年生の時には考古学の授業はなし。が、たぶん1983年の物集女車塚古墳の調査の時、来られたのではないだろうか。たしか小林行雄も。小林先生を見たのは、これが最初で最後でした。都出先生も、長法寺南原をこの時発掘していて、見学に行ってお見かけした。
◆次は3年生の1985なんだろう。概論だけ、だったか、いわゆる研究もだったか、覚えていない。前年までは実習も洋書講読も小野山先生だったように思う(年を取ると確からしさが失われる)。それがわれわれの学年が専門課程に上がる1985から、前年着任の山中先生が洋書講読で、実習は岡内さんになる。4回生は卒論演習を受けたのだろう。そうそう、12月の授業で、英文が配られて読解せよ、と。要するに大学院入試の予行演習だったのだと、あとで知る。というのも、2月だったかの大学院入試に失敗し、「英語がね~、12月の時はできてたんだけどね~」とのお言葉。
◆そう、3回生の時、近藤義郎先生からの楯築発掘への参加者募集の紙が掲示されていたのかな。それを見て、先生のところに行きたいと言いに行ったな。それと、1989の文学部博物館のオープニングで椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡となり、準備の最終日、O助手・H助手による展示設営を手伝っていて、終わったあと、日仏会館でおいしいものをいただいた、んだろう。
◆おこられたのはD1の時。武藤誠先生から頼まれ兵庫県史の嘱託になり(相談すべきですよね)、呼び出され、「君はなんでドクターに上がったのか」と怒られた。どう答えたのかは覚えていない。あれで、専攻生としてはハズレになったのかな。で、その年にナブンケンの募集があり、まず声をかけられたんだろう。すぐに返事はしなかったが、そのあと受けますと伝えた。
◆先生と撮った写真はなさそうだ。1枚。これは椿井大塚山古墳の測量の時、1988?、陣中見舞いに来られた時のもの。小林行雄の測量の方法を教えていただいたのは、たぶんこの時。『発掘調査の手引き』にはそれが書いてあるのでは。アリダードでのぞくとして、テープで距離を測るのとは違うやり方。で、もってこられたチョコを撮影したもの。
◆あんまりよくできた弟子ではなかっただろう。著書をお送りしたが、ざっとでも目を通していただいたのだろうか。それが気になります。ご冥福をお祈りします。

松木武彦さん逝去

◆しばらく前から患っておられたのですね。友人から聞いたのは1年前のことで、もうずいぶんと進行した段階でした。9月22日にお別れの会があり、岡山に出向きました。久しぶりに松木さんの顔を目にしました。岡山駅で会った友人からは、残る時間でやることを決め、それを2023年度末できっちりと仕上げられたとの話を聞きました。自分ならどうだろう。そういう覚悟をもって、やっておくべき仕事に立ち向かうことができるのだろうか。
◆松木さんとお会いしたのは1985年秋の楯築第5次調査でした。わたしは3回生で、松木さんはM1だったのだろう。阪神タイガースが日本一になったのが、この調査期間で、松木さんがちらし寿司を作り、卵とノリで黄色と黒の帯を盛り付けていました。楯築の時の写真を見直すと、松木さんの写っている写真があったが、吉備津神社で撮ったものでいいものなんだけれど、大勢が写っているので控えます。1点だけ、岡山大学の宿舎の写真を上げておきます。
◆そして1989雪野山。以後、多くの業績を上げられたことはいうまでもありません。その後は、そう多く接点があったわけではない。勝負砂は2007年なんですね。Sさんに誘ってもらって見せていただきました。それと2010・11・12の歴博共同研究。
◆2年上のほぼ近い世代。独特の語り、でした。朴訥ながらはっきりと、そして説得力がある。62歳は若すぎますよ、松木さん。書こうと思いつつ、ついつい書けませんでした。

中四国前方後円墳研究会に行けず

◆行くつもりであったが、どうにも首がまわらず、断念する。

2024年11月30日 見学会

◆王寺駅8:30集合。三里古墳、長屋王墓(梨子ノ木古墳)、紀氏神社、烏土塚の鍵を借りに平群町役場、ツボリ山古墳、平郡神社、西宮古墳、烏土塚古墳(鍵返却)、椿井宮山古墳、斑鳩町文化財センター、昼飯、川合大塚山古墳、河合町公民館展示室、尼寺廃寺、平野塚穴山古墳、狐井城山遠望、葛城市歴史博物館、二塚古墳、平林古墳、五位堂駅解散。
【写真】烏土塚古墳後円部。ま北に西宮古墳が遠望できる。

プラグイン

カレンダー

12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
6 7 8 9 10
12 14 15 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索