人を幸せにする人になろう

小野山先生の訃報

◆11月29日にお亡くなりになったとの連絡を受ける。昭和6年の生まれ、佐原さんが7年で、タナカタクさんが8年だったかと。ほぼ親世代です(S7)。
◆1983年に入学するも専攻分属は3回生から。1・2年次の教養科目に考古学の授業はないが、1983年の物集女車塚古墳の調査の時、先生が来られたと思う。小林行雄先生も(小林先生を見たのはこれが最初で最後でした)。都出先生も、同じ夏に長法寺南原古墳を発掘していて、みなで見学に行ってお見かけした。
◆次は3年生になった1985年なんだろう。概論だけだったか、いわゆる研究の授業もあったのか、覚えていない。前年までは演習も洋書講読も小野山先生だったと聞いている(年を取ると確からしさが失われる)。それが1985年から、前年着任の山中先生が演習も洋書講読も担当となる。4回生では卒論演習を受けた。卒論演習の12月の授業で、英文が配られ読解せよ、と。これが大学院入試の予行演習だったのだと、あとで知る。2月だったかの大学院入試に失敗し、「英語がね~、12月の時はできてたんだけどね~」とのお言葉。
◆3回生の時、近藤義郎先生からの楯築発掘への参加者募集の紙が掲示される。それを見て小野山先生のところに「行きたい」と言いに行ったな。それと、1989年の文学部博物館のオープニング。椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡の展示準備の最終日、O助手・H助手・Mさんによる展示設営を手伝っていて、終わったあと、日仏会館でおいしいものをごちそうになった。
◆おこられたのはD1の時。武藤誠先生から頼まれ兵庫県史の嘱託になり(相談すべきですよね)、呼び出され「君はなんでドクターに上がったのか」と怒られた。どう答えたのかは覚えていない。あれで、専攻生としてはハズレになったのでしょう。で、その年にナブンケンの募集があり、まず声をかけられた。すぐに返事はしなかったが、そのあと受けますと伝えた。
◆先生と撮った写真はなさそうだ。1枚出しておく。これは椿井大塚山古墳の測量の時なので1988年?、陣中見舞いに来られた時のもの。小林行雄の測量の方法を教えていただいたのは、たぶんこの時。『発掘調査の手引き』には書いてあるのでは。アリダードでのぞくとして、テープで距離を測るのとは違うやり方。写真は差し入れのチョコを撮影したもの。
◆あんまりよくできた弟子ではなかっただろう。著書をお送りしたが、ざっとでも目を通していただいたのだろうか。それが気になります。ご冥福をお祈りします。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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