人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
松木武彦さん逝去
◆しばらく前から患っておられたのですね。友人から聞いたのは1年前のことで、もうずいぶんと進行した段階でした。9月22日にお別れの会があり、岡山に出向きました。久しぶりに松木さんの顔を目にしました。岡山駅で会った友人からは、残る時間でやることを決め、それを2023年度末できっちりと仕上げられたとの話を聞きました。自分ならどうだろう。そういう覚悟をもって、やっておくべき仕事に立ち向かうことができるのだろうか。
◆松木さんとお会いしたのは1985年秋の楯築第5次調査でした。わたしは3回生で、松木さんはM1だったのだろう。阪神タイガースが日本一になったのが、この調査期間で、松木さんがちらし寿司を作り、卵とノリで黄色と黒の帯を盛り付けていました。楯築の時の写真を見直すと、松木さんの写っている写真があったが、吉備津神社で撮ったものでいいものなんだけれど、大勢が写っているので控えます。1点だけ、岡山大学の宿舎の写真を上げておきます。
◆そして1989雪野山。以後、多くの業績を上げられたことはいうまでもありません。その後は、そう多く接点があったわけではない。勝負砂は2007年なんですね。Sさんに誘ってもらって見せていただきました。それと2010・11・12の歴博共同研究。
◆2年上のほぼ近い世代。独特の語り、でした。朴訥ながらはっきりと、そして説得力がある。62歳は若すぎますよ、松木さん。書こうと思いつつ、ついつい書けませんでした。
◆松木さんとお会いしたのは1985年秋の楯築第5次調査でした。わたしは3回生で、松木さんはM1だったのだろう。阪神タイガースが日本一になったのが、この調査期間で、松木さんがちらし寿司を作り、卵とノリで黄色と黒の帯を盛り付けていました。楯築の時の写真を見直すと、松木さんの写っている写真があったが、吉備津神社で撮ったものでいいものなんだけれど、大勢が写っているので控えます。1点だけ、岡山大学の宿舎の写真を上げておきます。
◆そして1989雪野山。以後、多くの業績を上げられたことはいうまでもありません。その後は、そう多く接点があったわけではない。勝負砂は2007年なんですね。Sさんに誘ってもらって見せていただきました。それと2010・11・12の歴博共同研究。
◆2年上のほぼ近い世代。独特の語り、でした。朴訥ながらはっきりと、そして説得力がある。62歳は若すぎますよ、松木さん。書こうと思いつつ、ついつい書けませんでした。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。