人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
なかなかうまくはいかないが目処を
◆この数日来、フォトスキャンがうまくいかず悩んでおります。こういうことからほんとは解放されたい。分業したいわけです。が、まずもって自分として技術を確立したい。14日の撮影画像はなかなかよく撮れていて、もう3D化はしたが、北への拡張、礫面の精査が入り、変わってきたので、写真撮影に続き、改めてフォトスキャン用の写真を撮ったが、これがうまくいかなかった。
◆目的にそって、調査区全域と葺石を分けて撮影しており(これ自身、そうでない方がいいのかもしれません。経験値でやってます)、できるだけ写真の枚数を減らそうとしたわけだが、不足してしまった。これもまた経験。1回目の撮影が適正くらいと思い知る。現場は全体撮影くらいでないとシートを全開していないので、昨日、葺石用の分として一部シートをめくり追加撮影をした。数が多ければいいというわけでまったくないが、十分な枚数を撮れる機会にしておくべきと学ぶ。前回の感覚が適当で、2回目ははしょりすぎ・・・。
◆ということで実測にもっていかないといけないので、この土日でなんとか目処をと思って、いま作業しています。全景用の画像の不足は、変化のない前回分の画像も使ってやり直している。それと葺石用は、昨日の追加写真と、こないだの撮影の時に、フォトスキャン用でなく報告書用として撮った地上写真も選択して加えて、いま2台でやっております。うまくいきますかどうか。
◆目的にそって、調査区全域と葺石を分けて撮影しており(これ自身、そうでない方がいいのかもしれません。経験値でやってます)、できるだけ写真の枚数を減らそうとしたわけだが、不足してしまった。これもまた経験。1回目の撮影が適正くらいと思い知る。現場は全体撮影くらいでないとシートを全開していないので、昨日、葺石用の分として一部シートをめくり追加撮影をした。数が多ければいいというわけでまったくないが、十分な枚数を撮れる機会にしておくべきと学ぶ。前回の感覚が適当で、2回目ははしょりすぎ・・・。
◆ということで実測にもっていかないといけないので、この土日でなんとか目処をと思って、いま作業しています。全景用の画像の不足は、変化のない前回分の画像も使ってやり直している。それと葺石用は、昨日の追加写真と、こないだの撮影の時に、フォトスキャン用でなく報告書用として撮った地上写真も選択して加えて、いま2台でやっております。うまくいきますかどうか。
久津川車塚2017年8月25日(金)最高気温35度
◆参加者。城陽市担当者、工藤さん、自分、大澤(立命M1)、山本(立命3)、置本・佐藤・中野・宮下・山口・山崎(立命3)、池口(同志社3)、中谷(京都橘3)、上野(奈良大2)。
◆17-2トレンチ。朝、再拡張。上にのばしたトレンチを、テラス面の調査区幅にあわせ、斜面途中 のところまで、南に広げる。
◆(1)上段斜面上半部。いちばん上は、黄褐色の盛土らしい面が表土直下で出ているが、竹の根攪乱などが入り、そこから下は汚い土を除去できておらず、上から削っていくが、なお竹の根に阻まれるなどして、全面掘り上がりというところに全然いっていない。
◆(2)上段斜面下半部。前年度調査区のすぐ上のところで、葺石材が累々と頭を出してきた。ほとんど残っていないのではと予想されたが、これで格好がつきそう(むろん最終的な生きた葺石として残るのがどれくらいかはまだ不明)。拡張部の下半分くらいまでは上がってきそう。そして列石を確認した。昨年 の調査区で検出した裾部の葺石は、今回さらに精査して取れるものは取り石が少なくなったこともあり、くびれ部谷線の列石を4~5段読み取ることができた。その上は途切れているが、続きが上に伸びてきてた。それを境に、後円部側・前方部側として理解できるような形で葺石が出てきつつある。
◆(3)テラス面の礫はやはり南半部はまばらで、その分、礫を敷いたテラス面まで下げる必要があり、だいぶそういう姿になってきたので、そろそろ仕上がりである。もっとも、北半分の礫面も浮いているものなど、面としての最終仕上げも必要。
◆(4)埴輪。南半分が礫が飛んでいるように、前方部側の埴輪もやや低く検出されているが、すべてや や下位で残存を確認した。そして据え付け掘形を検討し、段下げ表現を開始する。後円部側(北側)は礫のない外側を下げ、前方部側(南側)は内側も礫がないので、溝両側とも下げて表現する。
◆以上のように、17-2(西くびれ部上段)トレンチも、およそ目処がついてきた。なお仕上げには時間がかかるので、じっくり掘り上げたい。そして、残り時間のなかで、もう1箇所の小規模トレンチを入れるかどうか考えていきたい。
◆学生らはこの日、全員、源氏に直行する。
◆17-2トレンチ。朝、再拡張。上にのばしたトレンチを、テラス面の調査区幅にあわせ、斜面途中 のところまで、南に広げる。
◆(1)上段斜面上半部。いちばん上は、黄褐色の盛土らしい面が表土直下で出ているが、竹の根攪乱などが入り、そこから下は汚い土を除去できておらず、上から削っていくが、なお竹の根に阻まれるなどして、全面掘り上がりというところに全然いっていない。
◆(2)上段斜面下半部。前年度調査区のすぐ上のところで、葺石材が累々と頭を出してきた。ほとんど残っていないのではと予想されたが、これで格好がつきそう(むろん最終的な生きた葺石として残るのがどれくらいかはまだ不明)。拡張部の下半分くらいまでは上がってきそう。そして列石を確認した。昨年 の調査区で検出した裾部の葺石は、今回さらに精査して取れるものは取り石が少なくなったこともあり、くびれ部谷線の列石を4~5段読み取ることができた。その上は途切れているが、続きが上に伸びてきてた。それを境に、後円部側・前方部側として理解できるような形で葺石が出てきつつある。
◆(3)テラス面の礫はやはり南半部はまばらで、その分、礫を敷いたテラス面まで下げる必要があり、だいぶそういう姿になってきたので、そろそろ仕上がりである。もっとも、北半分の礫面も浮いているものなど、面としての最終仕上げも必要。
◆(4)埴輪。南半分が礫が飛んでいるように、前方部側の埴輪もやや低く検出されているが、すべてや や下位で残存を確認した。そして据え付け掘形を検討し、段下げ表現を開始する。後円部側(北側)は礫のない外側を下げ、前方部側(南側)は内側も礫がないので、溝両側とも下げて表現する。
◆以上のように、17-2(西くびれ部上段)トレンチも、およそ目処がついてきた。なお仕上げには時間がかかるので、じっくり掘り上げたい。そして、残り時間のなかで、もう1箇所の小規模トレンチを入れるかどうか考えていきたい。
◆学生らはこの日、全員、源氏に直行する。
久津川車塚2017年8月24日(木)最高気温34度
◆参加者。城陽市担当者、工藤さん+1、自分、園原(立命M1)、佐藤・林田・宮下・山口・山崎(立命3)、池口(同志社3)、中谷(京都橘3)、上野(奈良大2)。
◆シートを全開し、写真撮影のための全面清掃。10:30目途。濠底はぬたくった状態でやむなしと思っていたが、中谷がきれいに仕上げてくれた。陸橋上面もきれいになった。盛土の境に釘で線を入れておく。
◆11:00過ぎからヤグラを立てての撮影、12:30頃までか。雲なし。なかなか厳しいコントラスト。
◆午後、フォトスキャン用の標定点の測量後、こちら側で地上撮影。次いで、フォトスキャン用の全景撮影と、フォトスキャン画像での実測のための葺石部分の写真撮影。前回分の3次元化もできているが、今回ので再度やり直します。
◆また2度手間となったことを反省。これ業者によるレーザー計測の日程の関係もないわけではない。どこで掘り上げとするか、こうした外部的要素とは関係なく、疑義のある場合は、一息置きつつ、納得いくところまでやるべきですね。なお、昨年は立面図の下図はレーザーによる点群データによる陰影図を使い、フォトスキャンの実践は平面にとどまり、試行的な段階であった。今回は、実測下図をぜんぶフォトスキャンでこちらでやるところまでいきたい。フォトスキャンとレーザーでは点群データの数が違い、レーザーの方が細かく正確。埋め戻してしまう遺構の記録として、汎用性としてもレーザーは必要と考えている。が、カラー画像であることのわかりやすさ、図面下図として目の前の石の識別の観点からもフォトスキャンは有効であり、今後、レーザーは下図に使うという目的より、最終的な掘り上がりの記録として、完全に終了した最終段階で実施すればいいと思う。ま、そうするにはフォトスキャンを間違いなくやれるようになってこその使い分け、だが。
◆15時から摂南学生の再撮影。
◆午後からは学生らは17-2トレに上がっての作業。上方拡張区との間のアゼを取っ払い、葺石の続きをめざす。撮影等であまり上にいなかったので、また明日、進捗を説明します。
〔来客〕豊島さん
◆シートを全開し、写真撮影のための全面清掃。10:30目途。濠底はぬたくった状態でやむなしと思っていたが、中谷がきれいに仕上げてくれた。陸橋上面もきれいになった。盛土の境に釘で線を入れておく。
◆11:00過ぎからヤグラを立てての撮影、12:30頃までか。雲なし。なかなか厳しいコントラスト。
◆午後、フォトスキャン用の標定点の測量後、こちら側で地上撮影。次いで、フォトスキャン用の全景撮影と、フォトスキャン画像での実測のための葺石部分の写真撮影。前回分の3次元化もできているが、今回ので再度やり直します。
◆また2度手間となったことを反省。これ業者によるレーザー計測の日程の関係もないわけではない。どこで掘り上げとするか、こうした外部的要素とは関係なく、疑義のある場合は、一息置きつつ、納得いくところまでやるべきですね。なお、昨年は立面図の下図はレーザーによる点群データによる陰影図を使い、フォトスキャンの実践は平面にとどまり、試行的な段階であった。今回は、実測下図をぜんぶフォトスキャンでこちらでやるところまでいきたい。フォトスキャンとレーザーでは点群データの数が違い、レーザーの方が細かく正確。埋め戻してしまう遺構の記録として、汎用性としてもレーザーは必要と考えている。が、カラー画像であることのわかりやすさ、図面下図として目の前の石の識別の観点からもフォトスキャンは有効であり、今後、レーザーは下図に使うという目的より、最終的な掘り上がりの記録として、完全に終了した最終段階で実施すればいいと思う。ま、そうするにはフォトスキャンを間違いなくやれるようになってこその使い分け、だが。
◆15時から摂南学生の再撮影。
◆午後からは学生らは17-2トレに上がっての作業。上方拡張区との間のアゼを取っ払い、葺石の続きをめざす。撮影等であまり上にいなかったので、また明日、進捗を説明します。
〔来客〕豊島さん
久津川車塚2017年8月23日(水)最高気温35度
◆参加者 城陽市担当者、工藤さん、自分、園原(立命M1)、山本(立命4)、宮下・山口・山崎(立命3)、池口(同志社3)、上野(奈良大2)、中谷(京都橘3)
◆朝、どこかまで礫清掃、その間、拡張区の水鳥形埴輪の撮影→取り上げ、そのあと全体清掃、というイメージ。15分遅刻。その間に事故。まったく幸いに大事にはならずに済んだが・・・。
◆礫の清掃は、午前中でひととおり終える。持ち場を終わった人は、順次、葺石の清掃に入っていく。葺石上の斜面の掃除などもざっとやる。
◆そのうち、拡張区から木製品があると。見てみると、竹竿のようなもの、残存30㎝弱。そんな 太くなく4㎝くらいか。途中上が斜めに切れているようになっており、真ん中が粘土化した黄色で、両表面が黒く炭化しているように見えるし、表面に縦方向の細かい筋があり、竹ではないかと。一方の末端が基底石のすぐ前にある。陸橋上面直にべた~と。立ててたものが倒れたか倒したか。しかし竹は中空で打ち込み杭にはならないので、どうやって立てるのか?などと考えていた。次いで、別のもの、長さ30㎝くらい、幅2㎝弱くらいで、たぶん4mmくらいの厚みの、短冊状のもの。表面が粘土化して黄色(ひび割れ)で、下になっている面が黒く炭化しているように見える。昼休みも費やして、当初の水鳥形埴輪片・礫、そして木製品?2をきれいに出してくれる。
◆昼休み、掃除機を新調しようかとコーナンへ行く。がフィルターとかめんどくさそうだし、決 めかねて買わず、この頃から小雨が降ってくる。13:00に現場へ帰り着いた瞬間、どしゃぶりに転じ、あわててシートをかける。これで全身ぐっしょり。雷もなり、雨雲レーダーで見ても次々に西から供給されてくる。とはいえ、中心は京田辺など南で、城陽はへりで推移するらしい。雨が止むのをまって14時再開する。
◆とはいえ、17-1トレンチに入っても、いつ降雨かわからないし、汚すし・・・。17-2に上がる。(1)上段裾部の残存葺石について3回生が検討し、根拠をもって、これとこれとこの石をはずしたいと。納得、はずせ、と。あまり意識していなかったが、谷線かと思われる列石が確かに見える。(2)拡張区。とにかく上から墳丘面を出していくのと、下部は深く掘る必要があるので、 その下げと。掘りたい者、竹の根っこをやっつけたい者多数おり、けっこう楽しく、かつ順調に進んだ。上半部は葺石などいっさいなく、すぐ墳丘面と思われる土が露呈する。かなり急傾斜だが、上下をつないで考えると、そんなところか。
◆朝、どこかまで礫清掃、その間、拡張区の水鳥形埴輪の撮影→取り上げ、そのあと全体清掃、というイメージ。15分遅刻。その間に事故。まったく幸いに大事にはならずに済んだが・・・。
◆礫の清掃は、午前中でひととおり終える。持ち場を終わった人は、順次、葺石の清掃に入っていく。葺石上の斜面の掃除などもざっとやる。
◆そのうち、拡張区から木製品があると。見てみると、竹竿のようなもの、残存30㎝弱。そんな 太くなく4㎝くらいか。途中上が斜めに切れているようになっており、真ん中が粘土化した黄色で、両表面が黒く炭化しているように見えるし、表面に縦方向の細かい筋があり、竹ではないかと。一方の末端が基底石のすぐ前にある。陸橋上面直にべた~と。立ててたものが倒れたか倒したか。しかし竹は中空で打ち込み杭にはならないので、どうやって立てるのか?などと考えていた。次いで、別のもの、長さ30㎝くらい、幅2㎝弱くらいで、たぶん4mmくらいの厚みの、短冊状のもの。表面が粘土化して黄色(ひび割れ)で、下になっている面が黒く炭化しているように見える。昼休みも費やして、当初の水鳥形埴輪片・礫、そして木製品?2をきれいに出してくれる。
◆昼休み、掃除機を新調しようかとコーナンへ行く。がフィルターとかめんどくさそうだし、決 めかねて買わず、この頃から小雨が降ってくる。13:00に現場へ帰り着いた瞬間、どしゃぶりに転じ、あわててシートをかける。これで全身ぐっしょり。雷もなり、雨雲レーダーで見ても次々に西から供給されてくる。とはいえ、中心は京田辺など南で、城陽はへりで推移するらしい。雨が止むのをまって14時再開する。
◆とはいえ、17-1トレンチに入っても、いつ降雨かわからないし、汚すし・・・。17-2に上がる。(1)上段裾部の残存葺石について3回生が検討し、根拠をもって、これとこれとこの石をはずしたいと。納得、はずせ、と。あまり意識していなかったが、谷線かと思われる列石が確かに見える。(2)拡張区。とにかく上から墳丘面を出していくのと、下部は深く掘る必要があるので、 その下げと。掘りたい者、竹の根っこをやっつけたい者多数おり、けっこう楽しく、かつ順調に進んだ。上半部は葺石などいっさいなく、すぐ墳丘面と思われる土が露呈する。かなり急傾斜だが、上下をつないで考えると、そんなところか。
久津川車塚2017年8月22日(火)最高気温34度
◆参加者 城陽市担当者、工藤さん、自分、大澤(市大M1)、園原(立命M1)、山本(立命4)、 置本・山口・山崎(立命3)、池口(同志社3)、上野(奈良大2)
◆17-1(後円部西端)トレンチ。(1)渡土堤の礫斜面の仕上げと、(2)再拡張区の掘り上げ、の2課題。本日最終状況は右写真。
◆(1a)渡土堤(文化庁『発掘調査の手引き』ではそうなってる?)の礫斜面は、裾部の見極めを進めるが、少しはずしすぎたかもしれない。ヒタヒタの周濠内で、元位置に近い裾部の石も濠内堆積土に全面覆われることはあるだろう。下の土や石の並びを基本としながらも、西壁を割っており、確かめられた地山の上がりとも整合するように止める必要がある。まあ、なんとか整える。渡土堤の現状肩部から水平距離で1.6m+30㎝くらいの範囲。
◆(1b)昨日の続きの、屈曲部やや西寄りの礫裾部という特定範囲から、水鳥形埴輪片がさらに 下 位から出てくるので、これを清掃し写真撮影、標定点を打ってフォトスキャン用撮影。
◆(1c)次に、谷部の後円丘葺石と礫との接合部分の検討と仕上げ。葺石材が礫の下から顔をのぞかせているところもある。大きな石があり(松井石)、後円部基底石であり谷筋でもあるコーナー石と考えてきたが、さらに陸橋側に比較的大きい石がもう1列通ってくる。平面的に葺石と葺礫が分けられているのかもしれないし、あとからの礫を(もう1列とした)葺石の上に一部重なるように並べているのかもしれない。結局は、その中間というか、「もう1列」の石にかかるような位置からの礫を残すようにした。
◆(1d)およそ礫を残す平面はこれで確定として、礫面としての整えにかかる。人数を投入して礫 の清掃をしながら、礫面の起伏を面的に整え、上に載っていると思われる転落礫を見極めながら削いでいく。なお未完了。+礫のない上部の再清掃も。
◆拡張部。朝、オジサン2人が一気に堆積土までの黄色を飛ばす。真っ黒の堆積土上層、それを下げると灰色粘土。基底石がきれいに続き、落ちていかない!。ま、ここまでですね。堆積層上面でいえば10㎝程度北に下がっているんですけど・・・。とにかく、後円部のいちばん下の裾よりも、この堤の突き当り部分の基底石の方が大きいしきれいに並べている。ここの方が見た目がより重要なんでしょう。
◆若衆で作業を進めてきた。M1の2人が、葺礫の範囲を見定め、人数を入れて礫出し作業に入ったので、手が空いて拡張区に来ていたこともあり、堤上面に近づいたこともあり、仕上げを指示。で、慎重に下げていくと、埴輪片がパラポラと出てくる。堆積土中で上げていたが、途中で、これ水鳥だ、ということになる。まとまって出てくるので、堤上面にも水鳥を置いていたと考えられ、埴輪を残すようにし、終了時点までに、だいたい出切る。礫もあって、それも残すようにした。とはいえ、基部がまわるように残っているわけでもないし、礫がまとまって残っているわけでもない。
◆礫は、後円部基底石のキワも、もし礫があれば残りやすいと思われるがなく、堆積土が直接裾 部に入り込んでいるので、堤上面は礫敷でなかったと考えていい。埴輪片のあたりの残した礫も、積極的に水鳥を押さえるといったような使い方をしていたといえるようなものではなく、上からの転落なんだろう。
【追記】なんだか皆お疲れ気味・・・。夜更かしせず、体を休め、9月14日まで持続するように。
〔来客〕ゴリゴリ館の博物館実習生。
◆17-1(後円部西端)トレンチ。(1)渡土堤の礫斜面の仕上げと、(2)再拡張区の掘り上げ、の2課題。本日最終状況は右写真。
◆(1a)渡土堤(文化庁『発掘調査の手引き』ではそうなってる?)の礫斜面は、裾部の見極めを進めるが、少しはずしすぎたかもしれない。ヒタヒタの周濠内で、元位置に近い裾部の石も濠内堆積土に全面覆われることはあるだろう。下の土や石の並びを基本としながらも、西壁を割っており、確かめられた地山の上がりとも整合するように止める必要がある。まあ、なんとか整える。渡土堤の現状肩部から水平距離で1.6m+30㎝くらいの範囲。
◆(1b)昨日の続きの、屈曲部やや西寄りの礫裾部という特定範囲から、水鳥形埴輪片がさらに 下 位から出てくるので、これを清掃し写真撮影、標定点を打ってフォトスキャン用撮影。
◆(1c)次に、谷部の後円丘葺石と礫との接合部分の検討と仕上げ。葺石材が礫の下から顔をのぞかせているところもある。大きな石があり(松井石)、後円部基底石であり谷筋でもあるコーナー石と考えてきたが、さらに陸橋側に比較的大きい石がもう1列通ってくる。平面的に葺石と葺礫が分けられているのかもしれないし、あとからの礫を(もう1列とした)葺石の上に一部重なるように並べているのかもしれない。結局は、その中間というか、「もう1列」の石にかかるような位置からの礫を残すようにした。
◆(1d)およそ礫を残す平面はこれで確定として、礫面としての整えにかかる。人数を投入して礫 の清掃をしながら、礫面の起伏を面的に整え、上に載っていると思われる転落礫を見極めながら削いでいく。なお未完了。+礫のない上部の再清掃も。
◆拡張部。朝、オジサン2人が一気に堆積土までの黄色を飛ばす。真っ黒の堆積土上層、それを下げると灰色粘土。基底石がきれいに続き、落ちていかない!。ま、ここまでですね。堆積層上面でいえば10㎝程度北に下がっているんですけど・・・。とにかく、後円部のいちばん下の裾よりも、この堤の突き当り部分の基底石の方が大きいしきれいに並べている。ここの方が見た目がより重要なんでしょう。
◆若衆で作業を進めてきた。M1の2人が、葺礫の範囲を見定め、人数を入れて礫出し作業に入ったので、手が空いて拡張区に来ていたこともあり、堤上面に近づいたこともあり、仕上げを指示。で、慎重に下げていくと、埴輪片がパラポラと出てくる。堆積土中で上げていたが、途中で、これ水鳥だ、ということになる。まとまって出てくるので、堤上面にも水鳥を置いていたと考えられ、埴輪を残すようにし、終了時点までに、だいたい出切る。礫もあって、それも残すようにした。とはいえ、基部がまわるように残っているわけでもないし、礫がまとまって残っているわけでもない。
◆礫は、後円部基底石のキワも、もし礫があれば残りやすいと思われるがなく、堆積土が直接裾 部に入り込んでいるので、堤上面は礫敷でなかったと考えていい。埴輪片のあたりの残した礫も、積極的に水鳥を押さえるといったような使い方をしていたといえるようなものではなく、上からの転落なんだろう。
【追記】なんだか皆お疲れ気味・・・。夜更かしせず、体を休め、9月14日まで持続するように。
〔来客〕ゴリゴリ館の博物館実習生。
酔っぱらって
◆何もできません。メールも見ません。
久津川車塚2017年8月21日(月)最高気温36度 第4週
◆参加者 城陽市担当者、工藤さん、自分、大澤(市大M1)、園原(立命M1)、前田・宮下・山崎(立命3)、池口(同志社3)、中谷(京都橘3)。寝冷え1名。
◆17-1(後円部西裾)トレンチに戻る。(1)陸橋側面の礫精査による除去整除にM1の2人があた る。(2)先週火・水の雨による流土のほじり清掃、(3)先週火・水の雨による南壁崩壊部の壁塗り。(4)拡張区について、法面を垂直に落とし、北行30㎝程度掘り進む。が、基底石1個が新たに検出されたが、陸橋は落ちない。10時休みに、どうしても学生らが拡張して陸橋の幅を確認すべきと主張し、北へ1mの拡張区を設定し、掘削にかかる。
◆(1)礫はほぼ想定ライン(西壁断面と谷部の大石で結ばれるライン)くらいまでは、堆積土上に礫が乗り、除去する。そのあと、ここまでの作業により高くなった裾部礫面について、下を確かめつつ、最上層の礫から取り除いていき、しっかりした礫斜面になるよう仕上げ作業を進める(途中)。また谷部寄りのところに水鳥埴輪の破片のまとまりがあり、上の作業が進められないので、16時以降、清掃し、出土状況の写真撮影、標定点3点を打った上でフォトスキャン用の写真撮影。そのあと埴輪を取り上げる(これも途中)。
◆(2)おおむね完了。
◆(4)東西で1.5m~2mの長さ、北への奥行1mの拡張区を設定し、工藤さんと若衆3人で表土から掘削開始。本日終了時点で2mは下がったかな。もう1mくらいか。明日は、陸橋の北へのオチが確認されるであろう。
〔石材調査〕橋本さん
〔来客〕徳満さん(アクエリアスありがとうございました)、三浦さん(差し入れありがとうございました)。
◆17-1(後円部西裾)トレンチに戻る。(1)陸橋側面の礫精査による除去整除にM1の2人があた る。(2)先週火・水の雨による流土のほじり清掃、(3)先週火・水の雨による南壁崩壊部の壁塗り。(4)拡張区について、法面を垂直に落とし、北行30㎝程度掘り進む。が、基底石1個が新たに検出されたが、陸橋は落ちない。10時休みに、どうしても学生らが拡張して陸橋の幅を確認すべきと主張し、北へ1mの拡張区を設定し、掘削にかかる。
◆(1)礫はほぼ想定ライン(西壁断面と谷部の大石で結ばれるライン)くらいまでは、堆積土上に礫が乗り、除去する。そのあと、ここまでの作業により高くなった裾部礫面について、下を確かめつつ、最上層の礫から取り除いていき、しっかりした礫斜面になるよう仕上げ作業を進める(途中)。また谷部寄りのところに水鳥埴輪の破片のまとまりがあり、上の作業が進められないので、16時以降、清掃し、出土状況の写真撮影、標定点3点を打った上でフォトスキャン用の写真撮影。そのあと埴輪を取り上げる(これも途中)。
◆(2)おおむね完了。
◆(4)東西で1.5m~2mの長さ、北への奥行1mの拡張区を設定し、工藤さんと若衆3人で表土から掘削開始。本日終了時点で2mは下がったかな。もう1mくらいか。明日は、陸橋の北へのオチが確認されるであろう。
〔石材調査〕橋本さん
〔来客〕徳満さん(アクエリアスありがとうございました)、三浦さん(差し入れありがとうございました)。
円応教
◆途中、へんな建物がある。以下ウィキ
兵庫県氷上郡井原(現・丹波市)に生まれた深田千代子(1887年(明治20年)10月3日 - 1925年1月6日)を教祖とする。千代子は1919年7月16日、大阪市で数え年33歳のときに天啓を受け奇蹟霊験を現し、「神の使いしめに生まれ、世の中の道具になる」という教義の元に宗教活動を開始、修法という霊導の道を遺し39歳で夭逝(円応教では「ご昇天」と呼称)、教えは弟子により継がれ、1925年2月9日、円応法修会が設立され、佐々木俊蔵が会長に就任。1931年2月6日には、円応修法会と改称。深田家の菩提寺であった妙心寺派霊雲寺の住職・林誠道が会長に就任。1933年には円応報恩会が設立、伴仲実襄が会長に就任する。
1948年(昭和23年)6月10日、教祖深田千代子の長男である、初代教主となる深田長治(1908年3月25日 - 1976年4月3日)により両会は合併され、教祖の法名「慈照院圓應智覺大姉(じしょういんえんのうちかくだいし)」より「円応」の二字をとり円応教として設立。長治は管長として就任後、千代子の遺文をもとにした教典及び教義書籍を発刊、仮本殿建設等、本部の整備などに尽力した。長治の死の1年後の1952年7月7日に宗教法人として認可される。現在の二代教主は、長治の長男の深田充啓(1937年2月27日 - )で、本部の整備充実を一層進めるとともに、教祖生誕百年祭の挙行と全県布教に尽力。
天地同根、物心一如、万教一元、生活即宗教をうたい、「世の中の道具になる」の本義に基づき、個人の霊力の自覚と発現につとめ、教祖の霊導を信じて、個人の霊力の無限・崇高・偉大性を自覚反省懴悔する「修法」を行い、個人と社会との幸福なる生活を実現することを目的としている。教義の5項目として、まと・誠・愛・善・陰の行がある。
円応教でいう修法とは、教祖によって考案された衆生の救済方法の一つである。この修法の中では、手の先をはじめとして身体全体に霊の感応が現れる身体的表現とともに布教師の口頭から発せられる言葉を「教文」といい、有意的懴悔、片言片句、半意識、無意識など多くがあり、また、現在意識・潜在意識を中心に歴史的潜在意識や霊的感応、阿頼耶識の発現により過去・現在・未来までが示現されるという。
教勢 教会数 152教会 布教所数 173拠点 布教師数 3,078名 信者数 452,727名 (平成27年度版宗教年鑑より)
兵庫県氷上郡井原(現・丹波市)に生まれた深田千代子(1887年(明治20年)10月3日 - 1925年1月6日)を教祖とする。千代子は1919年7月16日、大阪市で数え年33歳のときに天啓を受け奇蹟霊験を現し、「神の使いしめに生まれ、世の中の道具になる」という教義の元に宗教活動を開始、修法という霊導の道を遺し39歳で夭逝(円応教では「ご昇天」と呼称)、教えは弟子により継がれ、1925年2月9日、円応法修会が設立され、佐々木俊蔵が会長に就任。1931年2月6日には、円応修法会と改称。深田家の菩提寺であった妙心寺派霊雲寺の住職・林誠道が会長に就任。1933年には円応報恩会が設立、伴仲実襄が会長に就任する。
1948年(昭和23年)6月10日、教祖深田千代子の長男である、初代教主となる深田長治(1908年3月25日 - 1976年4月3日)により両会は合併され、教祖の法名「慈照院圓應智覺大姉(じしょういんえんのうちかくだいし)」より「円応」の二字をとり円応教として設立。長治は管長として就任後、千代子の遺文をもとにした教典及び教義書籍を発刊、仮本殿建設等、本部の整備などに尽力した。長治の死の1年後の1952年7月7日に宗教法人として認可される。現在の二代教主は、長治の長男の深田充啓(1937年2月27日 - )で、本部の整備充実を一層進めるとともに、教祖生誕百年祭の挙行と全県布教に尽力。
天地同根、物心一如、万教一元、生活即宗教をうたい、「世の中の道具になる」の本義に基づき、個人の霊力の自覚と発現につとめ、教祖の霊導を信じて、個人の霊力の無限・崇高・偉大性を自覚反省懴悔する「修法」を行い、個人と社会との幸福なる生活を実現することを目的としている。教義の5項目として、まと・誠・愛・善・陰の行がある。
円応教でいう修法とは、教祖によって考案された衆生の救済方法の一つである。この修法の中では、手の先をはじめとして身体全体に霊の感応が現れる身体的表現とともに布教師の口頭から発せられる言葉を「教文」といい、有意的懴悔、片言片句、半意識、無意識など多くがあり、また、現在意識・潜在意識を中心に歴史的潜在意識や霊的感応、阿頼耶識の発現により過去・現在・未来までが示現されるという。
教勢 教会数 152教会 布教所数 173拠点 布教師数 3,078名 信者数 452,727名 (平成27年度版宗教年鑑より)
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。