人を幸せにする人になろう

西壁と北壁の画像

◆現地説明会の朝、補足の写真をいくつか撮り、なんとかヌケのない画像をえました。

2017年9月10日(日)宇陀松山(5)

◆引き続き南下。千軒舎というまちづくりの拠点施設へ行く。公開しているのは、薬の館とここく らいで、あとはみなちゃんと居住しているわけです。宇陀松山は、信長次男の信雄を初代とする宇陀松山藩の陣屋城下町なのだが、4代目が財政政策をめぐって重臣を惨殺し自分も自害したという。それで5代が、丹波栢原へ転封となり、以後、天領となる。こうした宇陀の歴史を学べるガイダンス施設がほしいところ。また、今回は城攻めはできなかった。城はもっと早い段階では廃城となり、春日神社のある一帯に陣屋があったという。
◆久保本家で日本酒「初霞」を購入。酒蔵カフェにも入りたかったが、飲めないので入らず。町の南端まで来たので、1本西の街路を通って北上する。
◆途中、お茶を飲む。そのあとお城時代の西門を見て北上。南へ転じて、薬の館まで戻る。
◆そのあと道の駅に少し立ち寄るも、わんさかといるバイク野郎含め、多くの客があふれていたが、まちの観光客はそれほど多くはなく、まばら。静かでよいのだが、ここまで出かけても、現国道から中に入り、まち歩きをする人は少ないのだ、と感じる。まあ、観光客であふれるよりも、少しずつ認知されていくのがよいのかも。

2017年9月10日(日)宇陀松山(4)

◆次に国史跡という「森野旧薬園」に。もともと本葛を作って商売をしていたが、何代目かが徳川 吉宗が全国に薬園を置くという際に、この家の6代目かが奈良山間部の薬草採取に功績があり、ここに薬園が開かれたのだという。背後の山に、いまも多くの薬草が植えられている。全国に置かれた江戸期の薬園で残っていたのがここくらいらしく、大正に史跡になった。入園料300円。森野吉野葛本舗から入っていく。
◆薬園はそこから斜面を登っていくのだが、その前に、ここの本葛の工場が勉強になる。「水飛」と表記されるが、水晒し場があり、資料館も付随する。本葛を買って帰る。葛切りを作ってみよう。

2017年9月10日(日)宇陀松山(3)

◆宇陀松山に入る。「大宇陀」というのは1942年に町村合併で新たな行政区の名前を「大宇陀町」として以来の新しい地名らしい。なんとなく、越中八尾と似ている。南北にのびる街並み、その規模などが。
◆2006年に伝建になる。最初に薬の館に行く。 細川家。道修町の藤沢薬品初代の母は、この細川家から嫁いだ女性とのこと。薬看板など、資料がよく残る。→「きみごろも本舗」で「きみごろも」を買う。和菓子屋で地元の銘菓を食べるのも、まち歩きの楽しみのひとつ。
◆昼頃、お茶でもと入った「あゆみ家住宅」でランチを食べる。おばちゃんが話好きで、食事中、話をしていました。例えば、冬、桜井から榛原の途中で、近鉄電車の窓ガラスが、曇るんだそうです。

2017年9月10日(日)宇陀松山(2)

◆桜井から長谷南道(勝手な命名)を通り宇陀松山へ。途中、オッサカを通るので、「段の塚イコ カ」と。前に、確か雨が降っているような天気が良くないなかで一度来たことがある。今回は天気も良く、陵墓の裏側をぐるりと一周する。なんとなく八角の稜線と思われるものも認識できる。とはいえ、夏場だと草木が繁茂し墳丘の全体を眺めることはできない。

2017年9月10日(日)宇陀松山(1)

◆現地説明会のあとは解散。カミさんと昼の食事をしたあと、スーパーで買い物。ハタハタほかアテを作り、飛鳥ワインを。カラオケ2時間シャウト(~22:30)、寝る。ひところの睡眠不足から、寝過ぎ気味で、2:30に目が開き、しばらく起きていたが、また寝て、起きたら9:30だった。
◆かばんに仕事道具を入れるも、遊びに行くことに。念願の宇陀松山に向かう。桜井で織布コウバ の木造のノコギリ屋根を見て、戻り、写真を撮りに行く。比較的最近までやっていたが、やめてしまったみたい。10年前くらいだろうか。繊維産業の全盛期、1970年代以降の中国製品輸入開始以前、地域地域で、大きな企業に納入するような、自分の家の敷地内などに設けた織物コウバが作られた。和泉でもまだ営業を続けているところもあるが、多くがやめていっただろう。これらも近代日本の歴史遺産である。が、田舎では、地域地域にそこそこ残っているのか もしれませんね。壊すにもお金がかかるし。どこまで貴重かといわれれば、こうした近代化遺産、ある時期にはどこでも見られたもので、価値のあるものなんだという感覚や、残していけるなら残したいねという意識は希薄なんだろう。
◆とはいえ、そこは文化財担当者の見識でしょうね。大きな工場で煉瓦建築のいいのがある、といったわかりやすいものでなく、村のなかに遺る近代化遺産、遺ってきているとはいえ、徐々に数を減らしていく中で、できるなら特徴的なもの、典型的といえるものなどを、なんとか残したいと思い、所有者と話をし、またそのための手だてを考えたりするかどうか、ということになるのでしょうね。

2017年9月9日(土)現地説明会

◆参加者。城陽市担当者。工藤さん+1、自分、長友さん、大澤(市大M1)、園原(立命M1)、川 北(京大M1)、泉・田口(奈良大4)、前田・山崎(立命3)、池口(同志社3)、中谷(京都橘3)。以上だったけか。
◆8:30集合。第2京阪で行くと、8:15には着いたか。会場への誘導ボードを取り付けたり、テントを立てて受付をつくったり、遺物の実大ボードを作ったりと・・・。
◆10:00から13:00.参加者は約300人?。原田君や道上君も来てくれました。天気はよい。院生・学部生、みな説明に立つなど、それぞれの役割をやってくれる。チームでちゃんと仕を割り振ってくれている。リハも。こっちは、1回だけ17-1の説明をした程度。
◆終了後、後片付けをして、シートをかけて、14:00頃に解散。

渡り土手の角度

◆基底石は車塚座標南北軸から14度東偏。なので、土手軸は主軸に対し76度西偏(前に画像に入れてましたね) サイン・コサインを出して座標を変換し、フォトスキャンの座標を置き換え、振りました。これにもとづき礫立面オルソを作りました。

壁面オルソ

◆こないだ、北壁だけで、西壁とつながらなかったもの。直後に写真を補い、ここまでは来ていた が、未完です。西壁の隅部、画像はありアラインされているのだが、なぜ欠落するのか、重複がないとこうなるんですかね。それとせっかくだから拡張区の西壁も連続するように、補っておこう。

2017年9月8日(金)

◆参加者 城陽市担当者、工藤さん、自分、長友さん、大澤(市大M1)、園原(立命M1)、泉・田口(奈良大4)、前田・山崎(立命3)、池口(同志社3)、中谷(京都橘3)、上野(奈良大2)。
◆シート全開。お日さんに調査区の乾燥をお願いする。各自、図面の続き。17-3トレンチ(掘り下げ停止)の今年度記録(写真・フォトスキャン)。17-1トレ木製品の2分の1図の立面図作成。
◆午後、レーザースキャン(12:30~16:30)、17-2トレ→17-1トレ変更部。16:30時から現地説明会の設営。列石に色ガムテ。部位名称パネルを釘で地面に打ち込む。最後、17-1トレンチの柵を少し調査区に近づけるため、杭の打ち直し、トラロープ張り。完了は17:30
◆悔しい17-3トレ。今年度はここまでと・・・。今年度の記録として写真を撮
ってもらい、フォトス キャンもやっておく。できたが、標高がおかしい。機械高か眼高か。明日、標定点のレベルだけ確認しておこう(できれば写真も・・・)。掘っている最中に、くびれ部との標高差を確認したが、調査区西側の掘り込みを止めたところで、くびれ礫敷面より30㎝高かった(はずだが・・・)。上段だし、ほぼ水平だろうとは思うが・・・。
〔訪問〕和田先生。

プラグイン

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索