人を幸せにする人になろう

パイオニアワークとは何か

◆本多勝一の書いたもので、わたしに一番影響を与えたもので、いまもって時々ながめるもの。それは「「創造的な登山(パイオニアワーク)」とは何か」だ。原典は、京大山岳部の『報告』第5号(1955年)というから半世紀以上前に書かれたものだ。のち日本実業之日本社から出された単行本『山を考える』(1966年)に収録され、わたしが読んだのは、朝日文庫になったもの(1986年)である。文庫本をめくると、奥付に1986.2.15.のスタンプが押してあり、1986年に買った17冊目であることを示すスタンプもある。まめでしたね。しかも、最終頁には、2月19日読了とある。1986年3回生の2月、先輩の卒業論文の手伝いも終わって、さぞ自由だったろう。この春、山形に運転免許を取りに行くことにし、金を貯めていた。埋文センターでアルバイトに雇ってもらい、生活を切り詰めて金をためていた。そういうことを何故か覚えている。3月下旬、山寺に泊まって、普通免許と自動二輪の免許を取りに行った。合宿の合間に、菅沢2号墳の埴輪出土状況の図面を取ったこともあった。卒論のテーマを三角縁神獣鏡に決め、森下さんの資料を借りて、合宿にもっていき、夜は三角縁神獣鏡をながめていた。いちばん元気があり、充実していた時期かもしれない。免許を取って、先輩の中古のバイクを10万円で譲ってもらい(1カ月1万ずつ支払った)、4回生になった4月下旬には乗っていたと思う。
◆脱線しました。このパイオニアワークとは何かというのは、山登りの話だが、ことは学問を含め仕事全般に、いや人生そのものにあてはまる。青い色鉛筆プルシアンブルー(赤青鉛筆を使い分けることが好きでした)で線が引いてある。この文章のなかのさまざまな文が、大きな影響を私にあたえた。
◆「一瞬一瞬、人間は常に新しい感情を抱いて、新しい計画のなかに身を投げるのだ―シモーヌ=ド=ボーボワール」
◆「創造することより他に喜びは無い―ロマン=ロラン」
◆「飛行機でも戦車でも持ちこめ。幾千人と動員して総攻撃せよ―高谷好一」これは目的のために手段を選ぶなということ。
◆「他人のやることにケチをつけるヒマがあったら、自分で多少なりと独創的な仕事をやってみろ―川喜田二郎」
◆「それじゃ君は、人間が利己的動機以外の動機で動くものだとでも思っているのかね?―サマセット=モーム」
◆君は何故山に登るんだい。「こういう愚問に対しては「では君は何故生きるのかね」と反問する事を以て回答としておくね。反問された男が多少なりともましな奴なら、彼が「生きて」いなかったこと、惰性の人生を歩んでいたこと、登山のような無意味な行為をやっている馬鹿な」男の方がむしろ自分よりも「生きて」いることに気づくだろう。」
◆「登山は何の利益ももたらさない。パイオニアワーク自体を目的としている。登ろうという意志そのものに意味があるのだ〔予は永遠に闘争する自由なる意志である―ロマン=ロラン〕。」
◆「根本的には本人が本当にやる気なのかどうかに懸かっている。君の周辺を見まわしても気付く事だろうが、ある計画を何人かのグループで立てたとき、その計画が実現するかどうかは、そのグループの中に「1人でも実行する」という決意の者が含まれているかどうかでほぼ決まるといっても良い。自分1人になっても手段を選ばず実行するほどの男がその中に1人でもいたら計画は成功するだろう。」
◆「個人の力というものを過信する気はないが、世の中で「彼だけでは出来なかった」といわれる事業の中には「彼なしでもまた出来なかった」ものが意外と多いものだ。」
◆「研鑽と努力による常套的アタックの限度以上は、残った確率何分の1かの可能性に賭けて突進するのだ。冒険の精神とはそういうものだ。」
◆「今為し得る賭けを為せぬ者は、未来の如何なる対象に対しても決して為し得ない者である。」
◆こうした考えに影響を受けて考古学をやってきた。この文章が書かれたのはチョモランマの初登頂で最大の目標を失ったアルピニストの世界の議論であるが、学問の世界はそうした明確なゴールはなく、すべてパイオニアワークたりうる世界である。なにか研究するとき、常に「ここまで行ったのはオレ1人」という境地をめざしてきたし、大阪市大で調査するとき、茶臼山やメスリ山や摩湯山の測量を、冒険と思ってやってきた。できるかどうかわからないが、やりたいものはやってみるのだ。
◆まあ、そんなカッコいいものではないが、この「パイオニアワークとは何か」が自分の思考のベースを形作ったことは確かである。なのでわたしには一発狙い志向もある。

なんでもないんですが

◆このところブログを書きまくっている。わたしの場合、ブログを書いている時は、なにかから逃避しているようだ。ほんとうのバロメータは日記、ここ3週間くらい書いていない。日々が充実していない証拠だ。
◆今日も、あれもこれも、やることはあるが、最重要課題にはつっこんでいない。調子が悪いわけではないが、張り切っていない。わたしは躁鬱の気がある。いまは穏やか。昨年の1~4月は最悪でした。完全な鬱状態。回復したいまとなっては不思議だが、すべてから逃げたいと思った。3月、どん底。ついに心療内科に行った。自分の状態を説明している時、涙がぼろぼろこぼれた。医者は、休めと。いま頑張ったら折れてしまい、一生がダメになる、と。半年休めと。休職を願い出ることはしかし、自分では現実味がなかった。GWから5月にV字回復を果たした。よく夏に発掘にこぎつけたものだ。メスリも出た。
◆しかし年末からまた怪しくなった。無力感。でも、これは軽微なまま回復した。いまは全然なんでもない。支えてくれたのはカミさんだった。毎週、大阪に帰ってきてくれ、気晴らしに連れ出してくれた。多謝。
◆こんなことも書いておこう。ウソ偽りのない自分の姿だ。いまは安定し、ペースメーカーもある。授業も楽しい。
◆話を変えて。大学の頃から、専門の本以外はほとんど読まないなかで、本多勝一をずっと読んできた。読み始めは高校の時に、受験勉強対策で『日本語の作文技術』を読んだことに始まる。『貧困なる精神』シリーズも、全巻はないがほぼある。結構、ブログを書いていると『貧困なる精神』を思い出す。本多も定年退職、週刊金曜日は創刊号から読んでいたが、いつのころからか定期購読が切れた。そういえば、週刊金曜日編集部に就職できないか、と思ったこともあったような気もする。
◆いつのころからか廣瀬隆にはまった。大学時代に『危険な話』を読んだが、90年代だ、たいがいの本を読んだのは。巨大な金融投機屋が世界を動かしているというのは、事実だと思っている。これがグローバル化の実相である。現代世界史の裏は、われわれには想像もできない。日本の資産は、巨大な作為の前に盗まれ続けている、と思っている。
◆で、いまは。なにもないんだけど。立命館大学の社会学の立岩真也さんの書くものに興味がある。著書は読んでいない。この人の話、最初に知ったのは、5年以上前、まだ信州大の助教授だった時。たしか正月頃の記事だった。人が生きることが重要で、経済活動もそのためにあるのであって、競争を否定する話だった。どこかに記事がとってあると思う。で、編入学試験の担当たっだ時、小論文の試験問題に取り上げた。その回答にがっくりしたことを覚えている。若者は、いい暮らしをするために競争があるのは当たり前で、負けた者はしゃーない、と考えているのだ。そうした競争を否定する、そうでない社会の実現をめざすべし、という立岩氏の主張に対して共感がなく、競争は必要だという回答ばかりで、愕然とした。そんなにもゆったりと暮らして3de5ef81.jpgいないのだ、そんなにも、小さい頃から競争社会に浸かりきっているのだ。
◆いま手元にあるのは2009年03月02日の記事。「できる人が得をし、そうでない人はしょうがないという能力主義や業績原理は、我々の社会が是としているものです。しかし基本的には非と言えると私は考えています。しかし同時に、市場はたしかに便利なものであります。ならば、市場の中でついてしまう差をどうやってならしていくか。やり方は、考えるところ三つしかない。」で、その次の週の続きは残念ながら見逃しております。切り抜きを探したら、2006年04月21日のものが出てきた。編入学の試験問題に出した最初のヤツではないが。
◆基本的に賛成なんだな。そう大きな差は正当化されない、と。同感だ。そうした再分配をいかに実現するか、ということだ。そういうことを言うと、保守層のみならず、受験者の考え方でいけば若者からも、「アカ」、「共産主義者」とたぶん言われる。極端やね。なにが理想像か、それが共産主義かどうかはわからないし、関心もない。19世紀にわれわれは既に競争社会の行き着く悲惨を見ている。社会保障や最低賃金や、失業保険や、そういうものうぃ、われわれは構築してきている。そしてこれからも、セーフティーネットをいかに効果のあるものとして整備していくか、という話をしているつもりなのだが。みなが幸せに生きるための再分配の仕組みを整えるべし、それはまったく正しい。そして、それはいまの日本のGDP、そしてわれわれがふんだくられている所得税、住民税、それら税収でかなりのことが実現できる。使い方なのだ。
◆立命館はいい人をひっぱってきた。これから結構、登場する頻度が高くなると思うよ。予告しておこう。
◆ZARDの歌の一節が好きだ。「誰かに必要とされたいから・・・」。そう、人間ってそういうものなのだ。さあ、仕事しよう。

博物館学芸員課程

◆06月29日、大阪大学であった博物館法施行規則改正の文科省による西日本説明会に出た。文科省の役人3人。頭のいい人たちなんでしょうね。
◆メモをまとめて文学研究科長と教務委員会に上げ、また全学にも上げてもらわねばならないのだが、メモを作る気力がない。意欲はあるのだが。
◆さて、1万人が資格をえても学芸員をほんとうにめざしているヤツのパーセンテージはきわめて低い。資格が取れるというのは、大学のウリだし、学生もなるならん(ならんやつが圧倒的)に関係なく資格はとっとく。一方で、この資格がなんの役にも立たないものだから、強化しようというのが今回の趣旨。ちなみにわたしは資格ありません。むかし奈文研にいたが、たとえば飛鳥資料館に転任を命じられても、それはOK。なぜか国立博物館は学芸員資格はいらないのだとか。へんな話。いまはどうなったのだろう。
◆わたしは、あんまり市大の学芸員課程に関与していない。深く関わって考古の教員をさらに獲得することをねらうということもあるし、どこでもそんなことを考えているのだろうが、これまでのところ、まったく深くかかわっていない。で、あんまり考えたことがなかった。文学部の教務に2年携わり、博物館実習のガイダンスもやったが・・・。そんなわたしですが、昨日の会議のあと思ったこと。
◆文科省のいうように世界に誇れるキューレーターの要請をめざす、そこまでいかなくとも即戦力の実力者を養成することをめざすとした場合、そのために各大学頑張れ、というのはやめにしませんか。学芸員になる気もないやつのために一生懸命、科目を増やし、授業をやるのはむなしい。ほんとうに力ある学芸員を養成するのなら、国家試験を導入すべし。司法試験や医師免許試験と同様にする。誰でも受験が可能。年令制限もなし。ただし高度なペーパーテスト。その及第者が1年間、上野で研修する。自然史系は科学博物館、美術系は近代美術館や東京都の美術館、動物園は東京都だが上野動物園、人文系は東京国立博物館。近くには芸大もあるし、国立文化財研究所もある。そこで、分野にわかれみっちりと修行をする。そうしてはどうだろうか。大学は学芸員養成を担わなくてよい。ほんとうに実を上げたいのならそうすべきだ。プロを要請することだ。
◆まあ、そんなこと言うたかて、しゃーないし、うちの体制を考えなきゃならん。おれも博物館の科目のひとつくらいはもたなあかんねやろ・・・。専任とることは限りなく無理だし・・・。

別冊『ヒストリア』ができた

◆2009年06月25日(金)、やっと別冊『ヒストリア』ができ、印刷屋から届けてもらった。涙・・・涙・・・9acca197.jpg、ああ4年かかった。あほみたいな話だが、嬉しいかぎりだ。このモトとなった企画は2005年4月の現地見学検討会。大阪歴史学会の委員になって最初の企画だった。苦労したなあ・・・。でもよかった・・・できて。まあまあいい本だと思う。通常号より150部増刷してもらった。すぐになくなるだろう、おそらく。
◆次は平野屋新田会所、その次は楠葉台場・・・。これらについてもいい仕事をしたいものだ。

紫香楽宮・近江八幡に行ってきました

◆2009年06月27日(土曜日)恒例の歴史学見学会。今回は栄原09b3dda9.jpg先生の案内による紫香楽宮ほか0f263eb7.jpg滋賀県。バスをチャーターし、参加は約50名となった。
◆まず、いまは甲賀市となったシガラキ、わたしは初めて。まず南の甲賀寺、大仏を建てたのがどこかが問題になっているらしい。展示館で、鍛冶屋敷遺跡などのパネルのほか、特別にスーパースター「アサカヤマ歌木簡」の実物をもってきていただき、見学することができた。朱雀路の検出された第2名神をながめ、宮町遺跡へ。すっかり田植えが終わった水田、北側の高い側からのぞむ。ラベンダーの植えられた99fbf7ed.jpg調査事務所でb5169daa.jpgDVDを見る。てっとりばやく内容を知るには映像が一番ですね。
◆そのあとは市大名物の城攻め、佐久良城。それから近江八幡にむかう。
◆まず煉瓦工場。全国で4つしか残っていないホフマン窯だが、朽ち果てつつある。この煉瓦も用いられているヴォーリスの洋風建築は、重伝建の町並みとともに大事にされているが、滋賀県も近江八幡市も煉瓦窯には冷たいと所有者さん。なんとかしたいと思って残しているが、個人では限界があろう。八幡堀に面し、近江八幡観光のe6ad078b.jpgひとつの材料となりうるもので、実際、ガイドマップにも掲載されているが、現在はまったくの放置である。
◆近江八幡の町をまわったのも初めてだ。大学時代、雪野寺跡の調査をやっていたころ、降り立つことは何度かあった。駅前に平和堂がある。しかしそれは近江八幡の町のはずれ。今回訪れて、町並み巡りをする観光客の多さに驚いた。近江八幡といえば、文化財保護法に新設された重要文化的景観第1号となった水郷というのもある。今回は、そっちに足をのばす時間的余裕はなかったが。そんなんで、ますます観光スポットとしての地位を確立してきているのだろう。たしかに落ち着いたいいところだ。
◆不満をひとつ。郷土資料館と歴史民俗資料館に行ったが、展示がいまいちだ。眼目は町並みや近江商人の商家などかも知れない。しかし、近世の八幡城および城下町の形成にしても、十分な解説はないし、まして考古資料などもわずかしかスペースはない。一方で、別途、博博物館があるなら別だが、そうした展示施設はなさそうである。重文などの建物はもちろん建築そのものを見せるとして、歴史民俗資料館など、展示スペースは限られているのだろうが、せっかく、これだけの人が訪ねてくれるのだ、きちんと近江八幡の歴史を示す展示をお願いしたい。

サンケイ新聞に記事が出ました

◆京都での陵墓シンポの時に取材にきていたサンケイの記者さんから電話があり、わたしの作adec767a.jpgった3D画像のことで取材したいという申し出があり、22日に取材を受け、さっそく2009年06月23日(火曜日)に記事になった。
◆報告書作りもデジタル化が著しい。我が社の場合も急速に。第2冊目の茶臼山の時は、老眼鏡をかけて、ロットリングで測量図を描いたが、第3冊のメスリの時は、所さんにイラストレーターの図を作成してもらった。これはあくまで報告書に2次元図を掲載するためだったが、和歌山・橋本にある測量会社である共和さんに、前年度(2007年度)に渋谷向山ほか3基のトレースをお願いしたところ、渋谷向山の3Dを作成してくれ、それを見て、昨年2008年の夏前に、メスリについてもAIのデータを渡しやってもらった。報告書作成は、校正もかなり進んでいた段階だったので、いろんな角度からの3D画像を挿図や図版に収録することはやめ、せっかくだからと扉に画像1点を掲載した。
◆こちらでイラストレーターで測量図を作成してやれば、キャドでの3次元処理は共和さんが比較的安価でやっていただけるので、本年2月の佐紀陵山古墳への立ち入りが決まった時点で、陵山について3D化して、公開時にわかりやすく見てもらうことを考え、昨年2008年12月から、わたしとしては初めてのイラストレーターによる作図にとりかかった。2月20日の立ち入り時の段階までに、ひととおりの作図は完成していたので、5月10日の陵墓シンポむけて最終調整に入った。12月の時点で、陵墓図にはないマエ塚も一緒にすることを考えて位置合わせはしていたが、マエ塚については絶対高でないため、等高線は陵山の図とは別になっていたが、これを結ばないと一体の3Dにならないので、厳密ではないが近似するところで線をつなぎ、データ的にはひとつにまとめ、共和さんにお願いし、3Dにすることができたもの。
◆いまは玉1の測量図もできあがっており、摩湯山のトレースにもかかっていて、順次、これらも3D化していく予定。

学生の就職難

◆教授会資料で出されたもの。どっかの企業の人がうちの大学で就職状況の発表を36f2da17.jpgした時の資料だそうである。
いまはながめてコメントする余裕がない。資料を掲げるにとどめる。

TK23の年代

◆新聞記事をここに保存しておこう。TK23の年代にかかわるデータ。ただしこれは最外年輪まではない資料で、42023e13.jpg新聞では450~460年という数字を出しているが、伐採から木棺への加工、そして実際の埋葬までの年代も見込む必要がある。460年代頃といっておくのが無難か。

13年ぶりのサッカー

◆06月24日、誘われて奈文研のサッカーに参加しました。前日からどうしようか迷ってい6e11df9e.jpgました。大歴の総会資料を仕上げなきゃいけない、当日の授業の準備もしていない。二兎を追う者は・・・という感じで、なにもできていませんでした。23日夜、なんとかパワポはあきらめたが授業の資料を仕上げた。朝、ウェアや靴下など、昔のサッカ-グッズはどこにあるか探さないとと思ってはいたが、それも忘れて、とにかく朝行って、授業の資料を仕上げて印刷。まあ授業はなんとかなった。次は、大歴総会資料、まだ書き上げていなかった個別案件の自分の分担分を書き、あとは全体の総括・方針の原案を手直しし、なんとかしあげメール。これでサッカーに行けそうになってきたので、小澤さんにメール。
◆問題は4限の授業(13:40-14:10)。結果的に、時間通りやっても間に合ったような気もするが、2時間はみておいた方がよいので、15:30に授業を切り上げなければならないと思っていた。実習で拓本である。ここしばらく実測をやっていたが、気分を変えて拓本と先週宣言していたので、拓本。弥生土器片を渡し、1人2個ずつ拓本をとってもらった。受講生に、悪いが奈良に行かなきゃならんのでと、15:45頃までやって、大学を出た。
◆サッカーは、藤原チームに入り、20分3本、1本目と3本目に出た。3-2で勝利。写真は、飲み会の席上、玉田氏が勝利を祝して、マグロとイカで紅白を作れという指示があり、ならべたもの。
◆やっぱり右のサイドバックにいて、真ん中が手薄になればゴール前にいた。最初の1プレーで、ボールに対処しただけで、息が上がった。山登りと違い、瞬間的な動きはきつい。でもまあ、そのあと、自分ではけっこうやれたと思っている。1回だけ、めっちゃ早いヤツに抜かれて、これはぜんぜん追いつけなかった。それと2点目取られたとき。これはオレの責任か。攻め込まれてクリアして一難去って、ボケーとつったっていたら、あっという間に玉を奪われ、オレが対処していなかったヤツをフリーにしてやられた。しかし、全般的に、守ってて、あまり不安はなかった。全体を見て、危ないヤツを張っていた。実際ボールが来て、ボールをもつ相手を十分にカバーできた。それにしても50でしかもメタボで前線を張っている玉田さんはスゴイ。
◆飲み会。いまの奈文研、若返って、彼らが話をしている姿は頼もしかった。組織はいい。個人営業の大学はちとつらい。
◆さて、2次会終了し、もう電車がない。小澤氏と橿原神宮前行きの普通で八木へ。タクシーに乗るつもりだったが、神奈川のカミさんに電話で相談し宿に泊まることに。八木もようわからんし、うろうろしたが適当なビジネスホテルはない。0:00過ぎの時間帯。結局、うろうろしたあげく、ネオン輝くラブホテルが1軒、しゃーない、酔った勢いで入りました。いまは従業員と顔をあわせることなく、チェックインも精算もできるところが多いが、ここはおばちゃんがいた。鍵をもらい入る。シャワーを浴びたらしい。寝る。朝は5:30に起きて、駅をめざした。今井町のあたりだった。それにしても、水曜日の夜というのに、空いていたのは1室、オレが入って満室。みなさん・・・。
◆自宅に戻り、子供の弁当を入れ、今日は1限の演習の授業があるので、大学にむかった。足は筋肉痛でうずく。

大和川と松岳山古墳

◆毎日、自宅からJR大和路線の高井田駅まで歩く。大和川にかかる国豊橋を渡り、ふりかえれc5c6a2aa.jpgば玉手山古墳群、そして川上の東側に目をやると松岳山古墳がある。ああ、松岳山の測量は、ここ4年言い続けて、できていない。今年こそはやりたいものだ。基準点の費用をどうするか・・・。
◆大和川、昔とは水量が違うと思うが、普段はわりあいわずかで、川底の瀬が見え、細い流れだが、ここ数日の夜から朝方のどしゃぶりのあとは、水量がぐんと増す。そのあとは、ゴミが散乱するのだが。
◆こういう風景を毎日見ています。

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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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