人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
陵墓懇談会に出席してきました
◆翌13日は東京・宮内庁。朝4:00起き。カミサンはこのところ、月曜の5:39JR柏原駅から神奈川に出勤する(これだと天王寺で乗り換えると、新大阪行きの快速に乗り継げる)。それでも勤務先では、まわりの者より早いのだとか。いつもは朝起こされ、柏原駅まで車で送るのだが、こっちも東京、12:00に明治大学に行けばよいのだが、同行する。
◆そっからがたいへんだった。JR高井田ではなく柏原に行くのは理由があるのだが、この日、車で送っていくわけではないので、歩いていこうと提案。5:00にでれず5:05に。けっこうな距離でぎりぎり間に合った。柏原市役所のところが、大和川付け替えによる屈曲部になっていて、旧長瀬川沿いにいまでも細い流路があり、そこを北上する。
「あんたのギリギリ人生にはつきあいきれん」と怒られる。
◆途中、富士山が見え、頂部に雲がかかっていた。カミさんは新横浜で降り、わたしは東京に向かい、お茶の水駅に降り立ち、喫茶店に入る(09:31)。で、この日の質問事項をまとめる。
◆12:00事前打ち合わせ、だいたい、いつものメンバー。懇談会は15:00。約1時間半。この時のメモをまとめておかないと記憶も定かでなくなるが、先延ばしにしている。
◆今年はコナベを掘る。奈良市が昨年の堺市のようなことはできないにしても、なんらかのアクションを起こしてほしいが、宮内庁には、地元に声を掛けて時々見に来るといった関係ではなく、成果発表は共同でやるとか、そういう形にしていただけないか、とお願いした。また、コナベは百舌鳥御廟山と同じく陵墓参考地、宮内庁管理地は墳丘部のみで濠は入会地だ。水を引いて調査している時に、立ち入りに了解はいるだろうし、宮内庁は危険だから侵入禁止にするのかもしれないが、干上がった北側から入り、宮内庁の土地の外から現場を見ることはできる。自分がそうするというのではなく、奈良市が、宮内庁にお願いして、一般見学を開催しようと思えばできるのだ。さて、どうなるだろうか。
◆そっからがたいへんだった。JR高井田ではなく柏原に行くのは理由があるのだが、この日、車で送っていくわけではないので、歩いていこうと提案。5:00にでれず5:05に。けっこうな距離でぎりぎり間に合った。柏原市役所のところが、大和川付け替えによる屈曲部になっていて、旧長瀬川沿いにいまでも細い流路があり、そこを北上する。
◆途中、富士山が見え、頂部に雲がかかっていた。カミさんは新横浜で降り、わたしは東京に向かい、お茶の水駅に降り立ち、喫茶店に入る(09:31)。で、この日の質問事項をまとめる。
◆12:00事前打ち合わせ、だいたい、いつものメンバー。懇談会は15:00。約1時間半。この時のメモをまとめておかないと記憶も定かでなくなるが、先延ばしにしている。
◆今年はコナベを掘る。奈良市が昨年の堺市のようなことはできないにしても、なんらかのアクションを起こしてほしいが、宮内庁には、地元に声を掛けて時々見に来るといった関係ではなく、成果発表は共同でやるとか、そういう形にしていただけないか、とお願いした。また、コナベは百舌鳥御廟山と同じく陵墓参考地、宮内庁管理地は墳丘部のみで濠は入会地だ。水を引いて調査している時に、立ち入りに了解はいるだろうし、宮内庁は危険だから侵入禁止にするのかもしれないが、干上がった北側から入り、宮内庁の土地の外から現場を見ることはできる。自分がそうするというのではなく、奈良市が、宮内庁にお願いして、一般見学を開催しようと思えばできるのだ。さて、どうなるだろうか。
高井田から高安山へ
◆こっちは、別途、古代高安城の探索を目的としていたのだが、カミさんには伝わっておらず、提案は却下され、不機嫌なままケーブルで下る。次は生駒山系でも生駒山の北を行こう。前から飯盛山には登りたかった。河内最大の山城である。信貴山口から河内山本には出ず、「おゆば」まで歩く。恩地川沿いを南下
◆息子と八尾のアリオで待ち合わせをしていた。3人で(娘は淡路合宿)めし。韓食屋に行こうとしたのだが閉店していた。それから買い物。うちは、カミさんは買い物嫌い、わたしは大好き、いつも「あんたはオバサンやから」と言われる。けっこう買い物をして散財した。
夏です
◆梅雨明けしたんとちゃうの。めっちゃお日さんが照りつけています。今日は暑い!(7/14)気象庁の言うとおりだった。そのあと梅雨明け前の豪雨(7/21)。
8月貧乏旅行の計画立案中
◆8月9日(日)4:00出発 藤井寺IC-山陽道(550㎞7.5時間)-11:30めかりPA昼飯-13:00出発-九州道・宮崎道(280㎞3.5時間)-16:30えびのIC-泊(えびの高原キャンプ村)
◆8月10日(月)霧島山(高千穂峰山登り・・・高千穂河原まで車で行き西からアプローチ・・・小澤さんのアドバイス-都城-志布志湾で海水浴(泊)
◆8月11日(火)唐人大塚-横瀬古墳-内之浦のロケット発射台-佐田岬-南
◆8月12日(水)開聞岳に登るのはやめておこう-池田湖-ココはしむれ-砂むし温泉-吹上浜(海水浴)-どこまで戻るか(姶良町とか)
◆8月13日(木)14日朝には大阪に戻る必要がある。
※8月9日、橿考研から桜井茶臼山の検討会の案内ハガキが来た。どうしたもんだべ。
新彊ウイグル自治区のこと
◆中国もようやるわ。まず実態隠し。何人死んだか、だれも正確なところはわからない。そして圧倒的な軍事力(特別警察らしいが)で言うことをきかせる。押さえ込みに成功か。大中国はプライドを捨て、独立させればよいのに。周辺自治区がなくとも、十分に大国だ。
◆とはいえ、チベットにはたいへんな希少金属資源があるらしい。結局はそういうことだ。めんどうな少数民族支配など、やめてしまえばいいのに、中国の経済発展に必要な鉱物資源があるのだという。新彊はどうなのだろうか。
【追記】やっぱり、石油・石炭が国内の30%とか40%、それと希少金属、かなりの資源が新彊にはあるらしい。
◆とはいえ、チベットにはたいへんな希少金属資源があるらしい。結局はそういうことだ。めんどうな少数民族支配など、やめてしまえばいいのに、中国の経済発展に必要な鉱物資源があるのだという。新彊はどうなのだろうか。
【追記】やっぱり、石油・石炭が国内の30%とか40%、それと希少金属、かなりの資源が新彊にはあるらしい。
自給自足
◆しばらく前に、テレビで自給自足に近い暮らしをしている人を取り上げた番組があった。とても面白かった。むろん、共感できる部分もあったし、こういう人もいるのだ、と知ること自体が新鮮であった。
◆1人目は、料理研究家だったオバサンが、南紀で自分で畑を耕し14年間一人暮らしをしているという。それが数年前で、今回、取材に行くと、人との繋がりが欲しくなって、ムコ殿を募集中で、また近所の人に料理を教えている、という変化があった。人間、雨露をしのげる家屋と、家のまわりに畑があれば、生きていけるのだ。とはいえ、電気やガスは使っているようだし、現金収入はあるんだろうか、蓄えか。まあしかし、自分で作ったものを料理して食べる、よく14年間も一人で暮らしてきた者だ。ふつうはこうはいかないよな。
◆2例目は、五島列島の廃屋を年間1万円で借り、海水からの取水装置を作り、塩を作って暮らす若夫婦+子1人。これが最高によかった。とくに奥さん。男が放浪の果てに五島列島にたどりつき、そこでどんな暮らしをしようが、どうでもよろしい。そんな男につかまって不幸な暮らしをしている、という気持ちがみじんもなく、ムカデが落ちてくるボロ屋ながら、自分で作物を植え収穫し、安全な食事をして、という生活にほんとうに満足している様子なのだ。この男がうらやましかった。あの子供はどんな野生児になるのか。そうか、子供が就学年齢になったとき、学校はあんまり近くにはなさそうだし、そのへんをどうしていくかだな。けど、見ててほんとうに、こんな暮らししてみたいと思ってしまった。
◆3例目は、茨城県だったか、無農薬はもちろん耕作機械をいっさい使わない農業を追究している夫婦。ここは徹底していて、電気ガスも拒否、薪ストーブでの調理。ここの場合、夫婦ともむろんそうした志向があり、互いに共感したことは確かだろうが、なんとなく無理をしているような気がした。男は自分の哲学を押し通し、奥さんはついていってる感じ。どこかで破綻しそうな気がする。いま歴史民俗資料館で見るような民具を使っている。エライと思うが、どこか我慢しているようなところはないか、ゆったりしていないような気がした。
◆こんな生活は自分には無理なのだが、農業をしたい願望はず~とある。定年退職後に始めるのはまず無理なので、遅くともいまごろからは始めた方がいい。近頃、家が欲しいね、とカミさんと話をする。そう、空き家でよいのだ。できれば田畑付きがいい。貸してくれるのでもいい。前に大阪・太子町で築300年の古民家が不動産広告に載っていて、見に行こうかと話していたら、翌週にはなかった。途方もなく敷地が広大で、家屋も大きかった。「半分でいいよな」と。で、まだ田畑が広がっているところで家をさがしたいと思っている。できれば、山も近い方がよい。そんなんで二上あたりはどうかと考えている。
◆どこかで、まじめに探しにかからないと実現することはないだろうが。古い家を少しずつ直すのって、いちばんやりたいことだ。しかし、もうやらないと、体が動かなくなるだろう。真琴(長女)はいま中3、彼女が大学に行くと、またオレ1人だ。2013年春か。それを目標にするか。いや、二上だったら、子供の通学もぜんぜん大丈夫なので、いまでもOK。やっぱり、本気になるかどうかだね。でも悲しいほど貯金がないのだ。
◆1人目は、料理研究家だったオバサンが、南紀で自分で畑を耕し14年間一人暮らしをしているという。それが数年前で、今回、取材に行くと、人との繋がりが欲しくなって、ムコ殿を募集中で、また近所の人に料理を教えている、という変化があった。人間、雨露をしのげる家屋と、家のまわりに畑があれば、生きていけるのだ。とはいえ、電気やガスは使っているようだし、現金収入はあるんだろうか、蓄えか。まあしかし、自分で作ったものを料理して食べる、よく14年間も一人で暮らしてきた者だ。ふつうはこうはいかないよな。
◆2例目は、五島列島の廃屋を年間1万円で借り、海水からの取水装置を作り、塩を作って暮らす若夫婦+子1人。これが最高によかった。とくに奥さん。男が放浪の果てに五島列島にたどりつき、そこでどんな暮らしをしようが、どうでもよろしい。そんな男につかまって不幸な暮らしをしている、という気持ちがみじんもなく、ムカデが落ちてくるボロ屋ながら、自分で作物を植え収穫し、安全な食事をして、という生活にほんとうに満足している様子なのだ。この男がうらやましかった。あの子供はどんな野生児になるのか。そうか、子供が就学年齢になったとき、学校はあんまり近くにはなさそうだし、そのへんをどうしていくかだな。けど、見ててほんとうに、こんな暮らししてみたいと思ってしまった。
◆3例目は、茨城県だったか、無農薬はもちろん耕作機械をいっさい使わない農業を追究している夫婦。ここは徹底していて、電気ガスも拒否、薪ストーブでの調理。ここの場合、夫婦ともむろんそうした志向があり、互いに共感したことは確かだろうが、なんとなく無理をしているような気がした。男は自分の哲学を押し通し、奥さんはついていってる感じ。どこかで破綻しそうな気がする。いま歴史民俗資料館で見るような民具を使っている。エライと思うが、どこか我慢しているようなところはないか、ゆったりしていないような気がした。
◆こんな生活は自分には無理なのだが、農業をしたい願望はず~とある。定年退職後に始めるのはまず無理なので、遅くともいまごろからは始めた方がいい。近頃、家が欲しいね、とカミさんと話をする。そう、空き家でよいのだ。できれば田畑付きがいい。貸してくれるのでもいい。前に大阪・太子町で築300年の古民家が不動産広告に載っていて、見に行こうかと話していたら、翌週にはなかった。途方もなく敷地が広大で、家屋も大きかった。「半分でいいよな」と。で、まだ田畑が広がっているところで家をさがしたいと思っている。できれば、山も近い方がよい。そんなんで二上あたりはどうかと考えている。
◆どこかで、まじめに探しにかからないと実現することはないだろうが。古い家を少しずつ直すのって、いちばんやりたいことだ。しかし、もうやらないと、体が動かなくなるだろう。真琴(長女)はいま中3、彼女が大学に行くと、またオレ1人だ。2013年春か。それを目標にするか。いや、二上だったら、子供の通学もぜんぜん大丈夫なので、いまでもOK。やっぱり、本気になるかどうかだね。でも悲しいほど貯金がないのだ。
夏ですね
◆セミが鳴き始めました。夏です。
近藤義郎先生の蔵書
◆2006年9月のことだったか、新納先生の造山古墳の測量調査の手伝いに行った際、澤田秀実氏と近藤義
郎先生を訪ねた。久しぶりに先生にお会いし、楽しくおしゃべりをした。
◆2007年春、大阪市文化財協会の松本啓子氏を通じて岡山に来いと言った連絡がきたが、不義理をした。で2007年8月、澤田さんから連絡が入り、近藤先生から呼び出しだというので出向いた。1年前とうってかわり体が弱っているようでショックを受けた。春に肺炎をわずらい、入院をして、すっかり体重が落ちたとのことであった(写真は070930)。
◆近藤先生の相談というのは、いまお宅にある蔵書や資料をどうするか、あちこちに頼んでみたが、思うようにならないので、お前、引き受けてくれ、という話であった。
◆それから澤田さんと、引取先について打ち合わせ、蔵書については、岸本が整理と処理をすることになる。先生の蔵書は、岡山大学退官時に釜山大学にほとんど寄贈されている。釜山に行ったとき、申先生に見せていただいたことがある。なので、報告書は退官後に寄贈されたものが多いが、しかし先生は退官後も旺盛に調査をし報告書を出し著書を公刊されてきた。つまりなお研究に必要なものは手元に置かれていたので、貴重な研究書もなお多く含まれていた。
◆2007年秋を中心に、つごう7回+1回だったか、岡山に通い、データを入力し、箱詰めし、大阪市大に運び込んだ。けっこう精神的につらい時期だったので、岡山通いは楽ではなかった。なんでこんなことしてるんだろうと思うこともないわけではなかった。いつも車のなかでZARDを聞いていた。妙に結びついているのだ、わたしのなかでは。岡山通い=ZARD・・・=メスリ山編集。
◆岡大関係者、教え子もたくさんいるにもかかわらず、大事なことをわたしに託されたことを、ありがたい話と思い、近藤家の家のなかをすっきりさせるお手伝いと思ってやってきた。作業は澤田さんとくらしき作陽の野口友代さんと一緒にやった。
◆最終的に大阪市大にない図書については、うちの大学にいただけることになった。ありがたい話である。2008年、学生をつかって図書館に入っている本かどうかを仕分ける作業を続けたが、いまのと
ころ6割にとどまり未完である。整理の済んだものは、受け入れにまわっている。すべて「近藤義郎」のスタンプを押している。それと重複本でも、処分すべきでないもの、手元におかれて長年読み込んでおられたようなものについては、いま岸本研究室の一画に配架している。
◆昨日(07月05日)、近藤先生のお宅を訪ね、整理状況を報告し、最終的な処理方法について打ち合わせた。なかなか当初考えたような仕分けを完全にして、きちんとし仕上げるにはなお時間がかかってしまうし、しかしあまり長引くのもよくない。そこで、新たな提案をして了承いただいた。この間、本に埋もれて、なかなか進まないこと、かつ近藤家にも申し訳ないと、心理的な負担も大きかったが、新たな提案で区切りがつき、このあとはサクサクと整理したい。![34b714a5.jpg](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1261283735?w=150&h=81)
◆最終的に、この年度末までに、作成途上のリストを完成させ、決着をさせる予定である。
◆先生は、昨年夏に青木書店から刊行された『近藤義郎と学ぶ考古学通論』を、体のつらさを押さえて必死に校正を仕上げられた。改めて先生の信念の強さを感じた。近藤先生の生命力はきっとスゴイと祈らずにはおれない。
【追記091220】先生は4月に逝去され、半年間、それは伏せられていた。10月に訃報が出たが、12月、別に朝日に追悼記事が出たのでアップしておこう。11月に『遺跡学研究』に書いた小文、書き上げて、先生に献呈する一文を入れようかと思ったが、おこがましいのでやめた。前方後円墳を研究しているわたしは、先生の弟子のはしくれと思っている。先生はじめ、諸先輩の研究を乗り越えていくのが、われわれの責務だ。先生には、三角縁神獣鏡の年代論について「あぶないぞ」、みたいなことを言われたことを覚えている。卑弥呼は考古学では出てこない、とも。先生に、わたしの前方後円墳研究のコメントをいただけなかったのは、残念である。しかし、前方後円墳そのものをやっているという意味で、端くれではあるが、先生のご研究の柱を正統に継承しているとも思っている。
◆2007年春、大阪市文化財協会の松本啓子氏を通じて岡山に来いと言った連絡がきたが、不義理をした。で2007年8月、澤田さんから連絡が入り、近藤先生から呼び出しだというので出向いた。1年前とうってかわり体が弱っているようでショックを受けた。春に肺炎をわずらい、入院をして、すっかり体重が落ちたとのことであった(写真は070930)。
◆近藤先生の相談というのは、いまお宅にある蔵書や資料をどうするか、あちこちに頼んでみたが、思うようにならないので、お前、引き受けてくれ、という話であった。
◆それから澤田さんと、引取先について打ち合わせ、蔵書については、岸本が整理と処理をすることになる。先生の蔵書は、岡山大学退官時に釜山大学にほとんど寄贈されている。釜山に行ったとき、申先生に見せていただいたことがある。なので、報告書は退官後に寄贈されたものが多いが、しかし先生は退官後も旺盛に調査をし報告書を出し著書を公刊されてきた。つまりなお研究に必要なものは手元に置かれていたので、貴重な研究書もなお多く含まれていた。
◆2007年秋を中心に、つごう7回+1回だったか、岡山に通い、データを入力し、箱詰めし、大阪市大に運び込んだ。けっこう精神的につらい時期だったので、岡山通いは楽ではなかった。なんでこんなことしてるんだろうと思うこともないわけではなかった。いつも車のなかでZARDを聞いていた。妙に結びついているのだ、わたしのなかでは。岡山通い=ZARD・・・=メスリ山編集。
◆岡大関係者、教え子もたくさんいるにもかかわらず、大事なことをわたしに託されたことを、ありがたい話と思い、近藤家の家のなかをすっきりさせるお手伝いと思ってやってきた。作業は澤田さんとくらしき作陽の野口友代さんと一緒にやった。
◆最終的に大阪市大にない図書については、うちの大学にいただけることになった。ありがたい話である。2008年、学生をつかって図書館に入っている本かどうかを仕分ける作業を続けたが、いまのと
◆昨日(07月05日)、近藤先生のお宅を訪ね、整理状況を報告し、最終的な処理方法について打ち合わせた。なかなか当初考えたような仕分けを完全にして、きちんとし仕上げるにはなお時間がかかってしまうし、しかしあまり長引くのもよくない。そこで、新たな提案をして了承いただいた。この間、本に埋もれて、なかなか進まないこと、かつ近藤家にも申し訳ないと、心理的な負担も大きかったが、新たな提案で区切りがつき、このあとはサクサクと整理したい。
◆最終的に、この年度末までに、作成途上のリストを完成させ、決着をさせる予定である。
◆先生は、昨年夏に青木書店から刊行された『近藤義郎と学ぶ考古学通論』を、体のつらさを押さえて必死に校正を仕上げられた。改めて先生の信念の強さを感じた。近藤先生の生命力はきっとスゴイと祈らずにはおれない。
【追記091220】先生は4月に逝去され、半年間、それは伏せられていた。10月に訃報が出たが、12月、別に朝日に追悼記事が出たのでアップしておこう。11月に『遺跡学研究』に書いた小文、書き上げて、先生に献呈する一文を入れようかと思ったが、おこがましいのでやめた。前方後円墳を研究しているわたしは、先生の弟子のはしくれと思っている。先生はじめ、諸先輩の研究を乗り越えていくのが、われわれの責務だ。先生には、三角縁神獣鏡の年代論について「あぶないぞ」、みたいなことを言われたことを覚えている。卑弥呼は考古学では出てこない、とも。先生に、わたしの前方後円墳研究のコメントをいただけなかったのは、残念である。しかし、前方後円墳そのものをやっているという意味で、端くれではあるが、先生のご研究の柱を正統に継承しているとも思っている。
首長霊継承儀礼
◆前方後円墳が首長霊継承儀礼の場で、大嘗祭の原型ではないかということは、わりとしっくりくる。が否定的な見方もある。(1)こうした見方の大元である近藤義郎説を点検すること、(2)そして先入観なく自分なりに考える必要がある。
◆大嘗祭は延喜式で唯一の大祀とされる重要な儀礼。それは当たり前、この国を統治する大王・天皇位の継承儀礼であるから。その内容は、寝所があり、夜に行われ、先王との共食といった内容を含むが、それ以上のことは秘儀として不明。こうした内容も時代的に変形や付加があろうが、7・8世紀の頃には整えられ、基本的に変わらず現代に続く。この延喜式に確認できる儀礼のなかに、より古い時代、倭王権の成立とともに整備されてきた王位継承儀礼の本源的なものが含まれているであろう。ここまでは異論はあるまい。延喜式の大嘗祭の中身をよく知り、その本質を考えることが重要だ。
◆一方、こうした古来からのもっとも重要な儀礼である継承儀礼とともに、桓武が即位儀礼を整えたという。天皇位を継承し、それを百官に知らしめること、こうしたことが官僚制やそれにみあう宮の整備と共に、より重要となるに違いない。こうした即位儀礼は、雄略だったかの登壇即位にも通じる。宮を営む場所に土壇を設け、そこで神器を受け取り、大臣・大連を任命し、新たな体制を宣言する、そうした行為は5世紀後半に一定の整備が進められたと考えられている。これも古代史では一般的な理解だろう。
◆しかし、登壇即位はあくまでも即位儀礼であり、7・8世紀にもっとも重要とされた継承儀礼である大嘗祭にうかがえる内容は含まれない。即位儀礼が先で、継承儀礼があとで出現する、ということではないと思う。継承儀礼こそが本来的なもので古くからあり、これに即位儀が独立整備されたと理解すべきであろう。
◆そう簡単ではないか。大嘗会の整備は神話確立とともに7世紀に新たにできた、これが基本なのだろう。皇御孫命(すめみまのみこと)すなわちニニギのミコトこそが、米粒をアマテラスから与えられ、豊葦原の瑞穂の国の統治をアマテラスから委任され、代々の倭王はこの地位を継承する者である、という正当化論理。大王がこの国の統治者であることがこれによって根拠づけられる。それはアマテラスでも、神武でもなく、ニニギノミコトを引き継ぐ(日継)ということ。
◆「ニニギノミコトの祖霊を継承するのが大嘗祭の本質」この理解でよいか、ということがそもそもわからん。つまりは、それこそが折口信夫の説、真床御衾と大嘗祭の寝所を結びつける発想の妥当性判断の分かれ目になる。それ以前がどうかは別問題だが、まずそこの確認。
◆もうひとつ和田萃先生のモガリの研究だ。大嘗祭の開催と、モガリ研究から結論されている埋葬時期は一致するのではないか。
◆アマテラスやニニギノミコトがいつ作られたかはわからない。が、こうした神話構造にもとづく理屈が作られてから7・8世紀の大嘗祭はできたのであろう。4世紀には、ニニギなんていないだろうし、遠い始祖の霊を継承するという意識はないのだと。そうかもしれない。しかし一方で、遠い始祖をどのように意識し、それを継承してきているという意識がたとえなくても、プリミティブな段階としては、先代を引き継ぐ、それを繰り返してきたということが、次期首長たる根拠になってきたことを否定することにはならないだろう。そこに、あとからニニギがのっかるというのは無理な想定ではない。
◆ここまでにしておこう。大嘗祭の原型が古くにさかのぼるという先行研究をさらにチェックすることが必要だし、われわれとしては前期古墳の調査成果のなかから言えることを究明しなければならない。考えるところもあるが、いまはやめておこう。
◆大嘗祭は延喜式で唯一の大祀とされる重要な儀礼。それは当たり前、この国を統治する大王・天皇位の継承儀礼であるから。その内容は、寝所があり、夜に行われ、先王との共食といった内容を含むが、それ以上のことは秘儀として不明。こうした内容も時代的に変形や付加があろうが、7・8世紀の頃には整えられ、基本的に変わらず現代に続く。この延喜式に確認できる儀礼のなかに、より古い時代、倭王権の成立とともに整備されてきた王位継承儀礼の本源的なものが含まれているであろう。ここまでは異論はあるまい。延喜式の大嘗祭の中身をよく知り、その本質を考えることが重要だ。
◆一方、こうした古来からのもっとも重要な儀礼である継承儀礼とともに、桓武が即位儀礼を整えたという。天皇位を継承し、それを百官に知らしめること、こうしたことが官僚制やそれにみあう宮の整備と共に、より重要となるに違いない。こうした即位儀礼は、雄略だったかの登壇即位にも通じる。宮を営む場所に土壇を設け、そこで神器を受け取り、大臣・大連を任命し、新たな体制を宣言する、そうした行為は5世紀後半に一定の整備が進められたと考えられている。これも古代史では一般的な理解だろう。
◆しかし、登壇即位はあくまでも即位儀礼であり、7・8世紀にもっとも重要とされた継承儀礼である大嘗祭にうかがえる内容は含まれない。即位儀礼が先で、継承儀礼があとで出現する、ということではないと思う。継承儀礼こそが本来的なもので古くからあり、これに即位儀が独立整備されたと理解すべきであろう。
◆そう簡単ではないか。大嘗会の整備は神話確立とともに7世紀に新たにできた、これが基本なのだろう。皇御孫命(すめみまのみこと)すなわちニニギのミコトこそが、米粒をアマテラスから与えられ、豊葦原の瑞穂の国の統治をアマテラスから委任され、代々の倭王はこの地位を継承する者である、という正当化論理。大王がこの国の統治者であることがこれによって根拠づけられる。それはアマテラスでも、神武でもなく、ニニギノミコトを引き継ぐ(日継)ということ。
◆「ニニギノミコトの祖霊を継承するのが大嘗祭の本質」この理解でよいか、ということがそもそもわからん。つまりは、それこそが折口信夫の説、真床御衾と大嘗祭の寝所を結びつける発想の妥当性判断の分かれ目になる。それ以前がどうかは別問題だが、まずそこの確認。
◆もうひとつ和田萃先生のモガリの研究だ。大嘗祭の開催と、モガリ研究から結論されている埋葬時期は一致するのではないか。
◆アマテラスやニニギノミコトがいつ作られたかはわからない。が、こうした神話構造にもとづく理屈が作られてから7・8世紀の大嘗祭はできたのであろう。4世紀には、ニニギなんていないだろうし、遠い始祖の霊を継承するという意識はないのだと。そうかもしれない。しかし一方で、遠い始祖をどのように意識し、それを継承してきているという意識がたとえなくても、プリミティブな段階としては、先代を引き継ぐ、それを繰り返してきたということが、次期首長たる根拠になってきたことを否定することにはならないだろう。そこに、あとからニニギがのっかるというのは無理な想定ではない。
◆ここまでにしておこう。大嘗祭の原型が古くにさかのぼるという先行研究をさらにチェックすることが必要だし、われわれとしては前期古墳の調査成果のなかから言えることを究明しなければならない。考えるところもあるが、いまはやめておこう。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。