人を幸せにする人になろう

久しぶりの飛行機で成田に

0f1c2f73.JPG◆何年か前に家族で沖縄に行ったとき、昨年10月に宮崎に行った時、それ以来の飛行機だ(歴博の研究会参加のため)。文化庁にいたときは隔週くらいで飛行機に乗ることもあったが、9年のブランクがあると、とまどう。昨年も宮崎まで飛んだのだが、今回、なにかと新鮮だった。
◆まずはチケットレス。前はどうだったんだっけ。文部科学省内の旅行社に行き、発券してもらってたような気がする。チェックインは簡単になった。聞くところによると、発券さえもいらないのもあるらしい。
◆手荷物検査。おどおどしてしまう。どうするんだっけ、と説明看板を見る。パソe5d5404f.JPGコンを出すか・・・、それから・・・、携帯は出した、あっ財布をポケットに入れたままだ、あわてて出す。
◆座席に座り、手荷物は足元に置けると思っていたのだが、いまはダメらしい(これはこの機種だからのよう)。乗務員の人にカバンを寄こせと言われ、下に置くからと反論したがだめだった。
◆機体も変わる。777-300というヤツだったが、なにやら座席周りは進化している。
◆まあ、そんなんで、伊丹から成田へ飛ぶ。成田はユネスコの会議でパリに飛んだ時以来だ。あの時は新宿駅(?)まで泣きながら行ったことを思い出す。待ち合わせの時間0f7df79b.JPGに間に合う成田エクスプレスに、危うく乗り損ねるところだった。ほんとうの駆け込み(わたしが乗り込むのを待ってドアが閉まった)。
◆伊丹空港に着いて、鉄道の方がよかったかな、となんとなく思っていたが、飛ぶとそうではなくなった。そう、地上を見る楽しみがある。文化庁でも後半はあんまり窓の外を眺めなくなったかもしれないが、いつも外を見ていた。日本国内なら乗ってる時間はせいぜい1時間、なんか仕事をしようとは思わない。首が痛くなるくらい外を見て楽しんでいた。だって地形は面白いから。
◆今回、伊丹は曇っていたが、上空に上が南下すると雲はまばらになり大阪が17777f11.JPG見下ろせた。大阪ドームだ、天王寺公園だ、あそこが市立大学と思っていたら、そうだ古墳を見なければ!。見える!。市立大学のほんの先、きれいな前方後円墳が重なるようにある。大仙とミサンザイ。東に向かうと、おお!河内大塚だ、次いで、岡ミサンザイ(堀が広くてけっこう目立つ)、うん?応神陵は?、なんか緑の塊がある、あれだろう。
◆大和川がよく見える。馬見丘陵は見えたが巣山などは視認できなかった。島の山も見えなかった。オオヤマトだ。あれは箸墓じゃないか。そしてよかったのは初瀬の谷だ。忍坂で二又に分かれ、北路と南路に分かれるが、それが合一し99eab372.JPGて墨坂神社のところに来る。そこから細い谷筋がしばらく続く、この谷線に感動した。ここが防御の要だよな。楯もならべるわな、と。それを抜けると宇陀の平野。そこから山、次には伊勢湾が見えたが、三重のどのあたりだったのだろう。
◆あとはひたすら海だった。途中、陸(浜)が見えたなと思ったら突先になって終わった。何年か前に行った御前岬か?そしてまた海、そして九十九里浜か、と思うと着陸態勢に入る。千葉県の田園が続く。豊かだ。台地上の新興住宅地もあるが、まだまだ台地裾部に昔の村があり、平野部はほとんど水田だ(戦後まもなくまでは、大阪府下の、河内平野も和泉平野も三島もこうだったろう)。弥生時代後期にはじまり、古墳時代後期に本格的な入植が始まり、中世・近世と、広大な平野をひたすら耕地へと変えてきた歴史を感じ、またその豊かな風景がよく残っていることに感心した。
【追記】翌26日の帰りの便はもっとよく見えた。写真をいっぱいとったが、そのうちのいくつかを掲げておこう。上から、三保の松原、伊良子岬、磐余、巣山、そして大和川が河内に出るところ、です。

横穴式石室の研究ってどうなってるのか

ead190c7.jpg◆卒論で横穴式石室をやっている者が1人いて、一緒に勉強している。まあそれにしてもわからんことだらけ、研究は細分化をきわめていて、読んでもようわからん。ざっくりと大づかみで、理解したいのだが。
◆藤木-牧野-天王山-(丸山)-石舞台-ムネサカ-岩屋山、とまあこういう変遷観がある。で丸山が欽明墓571で、石舞台が馬子262といったとたん、破綻している。石室の型式的位置が間違っているか、両被葬者のどちらかが間違っているか。
◆和田さんと新納さんの石室や石棺の変遷観はほぼ一致していると思うが、年代観は異なる。和田さんの方がオーソドックスで、牧野・天王山、石舞台を定説的年代で考え、丸山(の石室と奧棺)が7世紀第1四半期にならざるをえず、巨大前方後円墳とはみあわないが、欽明墓であると考え、堅塩媛改葬時の石室の作り替えを想定する。ほんまかいな、という意見はあろうが、理詰めの上での解決方法としての想定である。新納さんも方法論を明確にした60a86b2c.JPG上での理詰めの議論であるが、丸山(の石室と奧棺)を6世紀第3四半期に引き上げ、これを欽明墓であるとする。これは、7世紀代の横穴式石室墳の年代観、新納さんのこれまでの前方後円墳終末の時期を引き上げ、推古朝の画期を重視する議論の延長ともいえる。ただし、この年代観は従来の通説的な見解をかなり引き上げるものであり、どうも支持者は少なそうである。
◆このあたりの研究に先鞭をつけた白石太一郎氏は、やはり「牧野=彦人」「石舞台=馬子」は確実とみて、見解にぶれはない(これは否定しがたいよな)。(最近、テルチャンの説になんか言ってたように思うが、論文を思い出せない)。
143d23f7.JPG
◆さてと、わたしのチョコットした見方。馬子は稲目没後、敏達即位572年に大臣となり、推古34年626年に死ぬ。54年間大臣として君臨した。物部守屋を倒したのが587年、完全にトップに立つ。やっぱり寿墓とちゃいますか。最後の仕上げは必要だし、それが蘇我一族が集まっていたという記事であって、石室は6末~7世紀あたまにできててもいい。岩屋山式は7世紀前半でいいだろうし、文殊院西は倉橋麻呂(649没)だろう。文殊院西もあれは650年頃の石室でなくて、640年代とみるべき。
◆で、問題はそれ以前。
◆丸山=欽明、牧野=彦人、石舞台=馬子、これらは横穴式石室墳で被葬者と結びつけうる最有力資料で、かつ、その確度はかなり高い。牧野・石舞台は整合的で、そこに丸山が割り込んだ。そうなると丸山=欽明は否定される。石室の型式学的位置づけがa1cc2be3.JPG間違っているのか、特大墳での積み方を特別に考えるか、和田さんのように作り替えを考えないと、説明できない。
◆被葬者の比定の確からしさを考えると、彦人は『延喜式』のみにより、馬子の場合、「桃原」があそこかどうかの考証は知らないし、嶋大臣=島庄遺跡、そして石舞台の規模を考慮するもので、ばっちり結びつける記事があるわけではない。。欽明墓は、檜隈坂合陵に葬る記事がばっちりあり、その後の堅塩媛追葬記事もあって材料が多くあり、それにもとづく小澤さんやテルチャンの考証の蓄積によって、もっとも確かである。これを定点とすると、全体が6世紀後半に上がり、そうなると牧野・石舞台とも否定することになる。これが新納さんの見方。

◆だが、そうだろうか、3つともOKではないのか。丸山の羨道は、石舞台とはぜんぜん違う、もっ0d252cbf.JPGと古相で距離は大きい。横穴研のように、石舞台の前に置くべきだし、牧野よりも古くてよいかもしれない。図面だけでなく、実際の石の用い方、結局は写真なのだが、それも狭い空間で十分な画像はなく、全体像がわかりにくく、客観的な比較が難しいように思う(考えるところあり)。もうすこしやってみるが、丸山の石室は十分に古いのではないか。
◆かつ石の大きさや用い方は、巨石化、多段から3段・2段へという大きな流れは間違っていないのだろうが、実際には、たとえば牧野に花崗岩を運んでいく労力は飛鳥よりたいへんだろうし、また石材供給が同条件として、石積み職人がまったく同一系統でない限り、時間軸でばっさり切れないように思う。(1)調達できる花崗岩+(2)石積み工人の差を考えておくべき。
◆むしろ、流派がこちらにもあるとはいえ、石棺の方が共通指標たりうるのではないか。石室の編年は重要であることは動かないし、それが石棺の変化とも整合的であるという新納さんの方法論はまったく正しいが、どちらかというと石室の方が偏差が大きいように思う。丸山は日本一の巨大古墳で、玄室規模も大きい。したがってもちいる石材も大きくなろう。奧壁の構成が石舞台と近いかもしれないが、羨道部の石材の整い方は大きく異なる。
◆だからといって、丸山をどこまであげうるかは、総合的に考えなきゃならん。けれど、藤木の石棺より丸山前棺は古くても良い。藤木の壁体は多段だが、垂直に積み上げるあり方は、かなり牧野などとは異質であり、市尾墓山とも異なる。主流派ではないのでは?。なので、丸山が藤木より新しいと決めつけることはできないだろう。
◆丸山の石室は560年代に置けないのか、それを論証することだ。牧野・天王山は6世紀後葉、石舞台を7世紀前葉、岩屋山を7世紀前半として、丸山を6世紀第3四半期に置きうるか、である。それにしても6世紀前半の市尾墓山以降の石室と石棺をわかりやすく並べた図を見ない。自分で作るしかないか。
◆【覚】岩屋山って誰の墓か?

西国三十三所巡礼

◆今日の大学院演習で中世の地方寺院の話があり、西国三十三所の話題になった。
◆1那智山 青岸渡寺(△那智に行ったときに寄ったか記憶が定かでない)/2紀三井山 金剛宝寺 (紀三井寺3風猛山 粉河寺4槇尾山 施福寺 (槇尾寺)/5紫雲山 葛井寺/6壺阪山 南法華寺 (壺阪寺)/7東光山 岡寺 (龍蓋寺)8豊山 長谷寺9興福寺 南円堂/10明星山 三室戸寺/11深雪山 上醍醐准胝堂(醍醐寺)/12岩間山 正法寺 (岩間寺)/13石光山 石山寺/14長等山 三井寺 (園城寺)/15新那智山 今熊野観音寺 (観音寺)/16音羽山 清水寺17補陀洛山 六波羅蜜寺/18紫雲山 六角堂頂法寺/19霊麀山 革堂行願寺/20西山 善峯寺/21菩提山 穴太寺/22補陀洛山 総持寺/23応頂山 勝尾寺/24紫雲山 中山寺/25御嶽山 播州清水寺26法華山 一乗寺27書寫山 圓教寺/28成相山 成相寺/29青葉山 松尾寺/30竹生島 宝厳寺/31姨綺耶山 長命寺/32繖山 観音正寺/33谷汲山 華厳寺
◆まだまだだけど、行こうと思えば、葛井寺は近くだし、京都・大津にいけば、けっこうかせげる。総持寺や勝尾寺・中山寺など摂津の寺院はこれまで行ったことがない。

8月30日の総選挙

◆新聞に掲載されている週刊誌の見出しだけだが、以下。
◆週間現代   民主332 自民78(衝撃のドミノ倒し、だそうです)
◆週間朝日   民主280 自民?
◆週刊ポスト 民主261 自民160
◆アエラ     民主247 自民169 公明31 共産10 社民10(近畿民主23勝17敗)
◆解散から8月30日まで期間があることは良いことなんではないか。がっぷり四つ、でやればよい。ムードや勢いでなく、論点が出尽くし、様々な論評も出尽くし、その上で投票されることを望む。
◆得票はわからんが、結論は政権交代である。権力は腐敗する、交代していくのが当たり前。長期政権はよくない。望ましいのは中選挙区制度のもと、中小政党も支持される比率に応じて代議士がきちんと国会に送り込まれ、そうしたいくつもの考えの異なる政党間で、野合ではなく、その時々に連立し、政府を担うこと。ころころ変わって良い。それは不安定でも何でもない、支持を失えば、たちどころに政権を失う、それでよい、それが健全だと思う。いまの小選挙区制は、これには遠いが、とにかく交代、それでよい。


アエラ

◆カミさんが新幹線での読み物に買ったアエラがころがっている。衆議院議員選挙の予想の特集。パラパラめくる。あまりにも広告が多い。いまの雑誌って、そういうものなんだろうけど、講読売り上げでまかなえず広告をとらねばやっていけないのだろう。ブランドものの広告とか、見た目は、ANAとかの機内誌と変わりがない。これではだめだろうね。
◆週刊金曜日が購読料のみで、広告なしの週刊誌を出しているのは、やはりエライ。週刊金曜日を読んでいた者として、アエラを見たら、読むところもあるんだろうけど、広告にげっそりする。誌面がきれいで、気の利いた記事もあるんだろうけど、これはジャーナリズムではない。あくまで商業出版物ですよね。週刊ポストとか現代の方が、まだホネがあるんではないか。

讃岐・石棺(7月19日・20日)

◆走行距離687㎞。ひとまず行程表だけ。d3ed5f43.jpg65b6c437.jpg
◆8:00森ノ宮集合-鳴門西PA-(1)さぬき市(旧大川町)歴史民俗資料館-(2)冨田茶臼山古墳-昼食(うどん)-(3)龍王山古墳-(4)岩崎山4号墳-(5)津田の松原(琴林公園・資料館)-(6)鵜部岬-(7)赤山古墳〈石棺2〉-(8)さぬき市寒川図書館(奧3号墳の三角縁神獣鏡、奧10号画文帯神獣鏡2、森広遺跡の土器)-(9)さぬき市長尾支所(旧長尾町役場)(丸井古墳・川上古墳の遺物)-(10)高松茶臼山古墳-(11)香川県歴史博物館-(12)石清尾山(姫塚・ちっちゃいやつ・石船塚〈石棺1〉・鏡塚・北大塚)-高松市内泊-宴会
◆(13)瀬戸内歴史民俗資料館(赤山遺物)-(14)高松市歴史資料館-(15)石舟神社〈石棺未製品1〉-(16)浅野小学校侵入〈石棺1〉-昼飯(うどん)-(17)三谷石船古墳〈石棺1〉-(18)快天山古墳〈石棺3〉-(19)善通寺市市民会館(磨臼山石棺)-(20)善通寺市(郷土)資料館-(21)宗吉瓦窯(渡部明夫氏(館長)に再会・・・5月10日にオープンしたばかりだそうです)-帰途に就く-龍野西SA-21:50森ノ宮解散

働けど働けど、わが暮らし楽にならず

◆毎日、大学が閉まる22:00まで研究室にいる。22:00というより、昨日も今日も22:30だ。出勤は、日によって違うが8:30とか9:30とか10:00とかいろいろ。平均して10:00よりも早いと思うが、10:00として、一日12時間は大学にいて働いている。土日のうちどっちかは基本的に作業日で10:00-20:00は確実にいるので、週に70時間は働いている。
◆このあいだ勤務状況調査票を提出せよと言われた。これ、大学が公立大学法人になり、法人職員になり、労基署になんか出さなあかんらしい。これまで一切無視してきたが、つかまった。どういう調査かというと、1日7.5時間以上働いた日について、勤務時間を記入して提出しろというもの。日記があるので、真っ正直に書いてやった。つまりは土日も含め、大学に来た日は、これすべて7.5時間以上勤務なので、ほぼすべての日に記入してやった。なんか言うてくるかね~。
◆申し訳ないのは子供のこと。まあ、ほったらかし。だから、自分で飯を作り、洗濯をし、朝起きて学校へ行っている。胸を張ってこれも教育の賜物なんて言えないが、それなりにたくましくはなっている。接点は朝、そして弁当を入れてやること、とはいえ最近は、それもイチローの打率より低くなっているかも。最低のことはせな。
◆実際上の仕事の密度は、カミさんの方がもっと濃密に働かされているだろう。長くいること=働いていることでもない。集中力だろう。寝てることもある。
◆なので過労ということはないし、苦でもないが、しかし、時々、やる気がなくなる。今日もそうだ。朝から1限は1回生の演習、2限は卒論演習、3限は考古の研究会、4限は大学院演習、18:00から香川に出かける資料作りを学生たちとしていると、和泉市の人がやってきた。今日が考古資料編の打ち合わせであったことを完全に忘れていた。終了は20:00、それからもう一人の卒論演習、まあ木曜日はこんなんだ。そっから、ぼけ~。なんにもやる気がしない。疲れはてた。
◆なにか楽しみが欲しい。いまの楽しみは、ともかく来週、授業が終わること。夏休みだ。ほんとうは海外旅行にでも行きたい。プーケットでも、バリでも、サイゴンでも・・・、むろん仕事抜き。でも金もないし。なにか、ご褒美がほしい、人間だもの。よう働いたと。愚痴に終始したなあ。
◆いまは1時30分、バーミヤン国分店。23:00とかに家に戻って、それからバーミヤンで閉店の2:00まで仕事をするのが日課だ。
◆まあ、健康には気をつけなあかん。自分の問題だ。ある日、頭の血管が詰まって死んでもツマランし。肺ガンで余命半年ということになるかもしれん。

研究費がないままに・・・

◆研究科長裁量経費50万はもらえるだろうと思っていたのに、落とされた。これで松岳山とF市T古墳の今年度の測量は暗礁に乗りあげた。科研費がない身にとって、わずか50万がどんなにありがたいか。そうか、だめか。
◆いまは、大学の年間研究費20万、小沢科研分担金40万、高梨学術奨励金40万をやりくりしている。バイト代も11月分までしか確保できない。カミさんには内緒だけど(このブログを知っているので内緒にならないが)けっこう自腹も切っている。報告書も印刷代なんてないので、売って印刷費を払っている。完売を待ってもらうわけにもいかないので、立て替えもある。報告書を売って回収しなければならない。玉1の報告書代なんてないが、本文240頁の見積もりだ。なんとかインデザインで全部組み、印刷経費をおさえよう。けっこう、涙ぐましい努力をしているのです。
◆そんなわたしにとって、研究科長裁量経費の50万をどれほど渇望していたか。しゃーない。残る新産業創成研究に期待しよう。かなり高い競争率らしい。大学なんてこんなもんです。外部資金をとってこないと何にもできない。
◆まあ、なくても日常的な遺物整理は週1回続けているし、通いで測量くらいはできるが、それでもやっぱり基準点測量代は欲しい。まあええか。松岳山も、水準は前の柏原市のデータ、石棺のトップの高さから求め、座標は研究費がえられた段階であとづけで行こう。

和泉市史にまきこまれる

◆和泉市史、大阪市大日本史研究室は、和泉市史編纂発足から、まともにかかわっている。教員4名ともが委員。毎年、学生教育をかねて合宿調査もやる。これは2000年4月に赴任する前にスタートしている。考古は石部正志・広瀬和雄が委員だ。わたしはそこに市大に来たので、委員でなく専門調査員とかなんとか。なので、和泉市史の考古部門になんら責任を負いたくなかったし、距離を置いてきた。まあしかし、10年も和泉市で合同調査に関わり、おなじ地域を継続調査してくると愛着も生まれる。遺跡の豊富なところでもある。そして、石部先生はもう老齢で「任せる」というし、広瀬さんにはもはや期待ができない。なので、だんだん外堀が埋まり、実質的なことをせざるをえなくなってきた。今年度は池田編の原稿、来年はテーマ叙述編の原稿に組み込まれた。
◆そして、これは前から提案はしていたことだが考古資料編が動き出した。和泉市の文化財は弱体だと思う。まともな報告書はほとんどない。昨年の和泉黄金塚のシンポジウムで、「黄金塚を整備していこうというのはわかるが、いまの体制ではとても無理、若い実働可能な職員をとらないと、そんなことできない」と言った。この4月、定年退職者補充で1名はとったが、そこまでだった。どことも同じで、期限付き嘱託であとはまかなおうとする。しかし、和泉に来てくれる人はいないという。昨年度まで属託をやっているS君は、嘱託時のあまりの上司の無責任な仕事の押しつけに嫌けがさして、募集試験に応募しなかった。
◆そんな和泉市、未報告の山。和泉市にどんな遺跡があるか、まわりの人にはさっぱりわからん。だから市史編纂事業という予算がついている期間に、これまで掘りながら報告していないものについて、どんな遺跡があり、過去どんな調査がなされ、どんな遺構が出ていて遺物が出土しているのか、短くともまとめて考古資料編を出すことは、和泉市の場合は大いに意味がある。ただし、それをやるには、外部の大学人が数年で果たせることではない、お手伝いはするけれど、掘ってきた人が覚悟をきめて「やる」と決意しなければできませんよ、と言ってきた。そういう発言が委員会でもようやく取り上げられ、今年度になって動き始めた。5月に、文化財担当、石部先生、わたし、市史編纂職員で会議を開き、「やる」方向が決まり、遺跡のリストアップ作業にかかることになり、本日、第2回目の会議で、市史別編、A4版、200頁程度、といった基本線が固まった。遺跡のリストも出た。次は遺跡ごとに頁を割り振り、執筆者を割り当てていくことになる。
◆今年度に入り、いよいよ自分の調査とは別に、和泉市の調査もやっていかなきゃいかんかと、信太山周辺の首長墳および信太千塚の測量、和泉黄金塚の東博遺物の実測を考えるようになった。昨日の会議で、それも表明した。和泉大津高校の遺物整理は、わたしとしては躊躇していたのだが、それもやらされるハメになりそうな雰囲気だ。なんでもかんでもできはしない。しかし、考古資料編を出すから、こういう資料整備をしようといった前向きなことがどこまで進められるか、ほっといたら、あまりでてきそうにない。新しく入った新人に期待しよう。彼も、今日の会議を見ているだけでも、早くもモロモロを押しつけられている。
◆どういう距離感でいこうか。仕事をかかえこんで自分の首をしめることはすまい。市の文化財としてやるべきなのだ。ボランティアをやるほど暇ではない。和泉黄金塚も菩提池西も、自分が興味があるからやるのだ。
◆それとは別に、和泉の条里復元作業を市史紀要でやることになり、学生をバイトに雇ってもらって作業を進めている。これはこれで、古代の郷復元のためにやっている。これまでの古代史の郷理解とはまったく異なる結論が、数年前の池上の合同調査の時にえられた。奈良県は、大プロジェクトを組んで条里復元図の大著を世に出している。大阪は個別市史レベル。河内も摂津も面白いが、なんでもかんでもできない、まずは和泉だ。学生・院生1人づつ2人で、条里復元線をイラストレーターで描かせている。8月中くらいには終わるだろう。市史には小字を入れることはこっちでできないので、編纂室で地図に小字を入れてくれれば、それを仕上げることはする、と言ってある。

大阪市2015年度に財政再建団体へ

◆大阪市は2015年度にも財政再建団体に転落する見込みという。そうだよな、バスの運転手のなかに年収1000万円以上の人がいるというんだから。大阪市は組合が強く、過去、賃上げを認め続け、公務員の給料は全国でももっとも高い水準であった。舞洲の埋め立てなど、オリンピックをあてこんでの無用の事業を実施してきた。WTCしかり。互助会に会費のみならずベラボウな公費をつぎ込んできた。大阪市職員の福利厚生のために市民の税金がバラまかれてきた。むろん不況による税収不足が原因だが、これまでの組合とのなれあいがもたらした膨大な人件費は、当然、下方修正だし、それが他の自治体よりも落差が大きなものにならざるをえまい。当然、わたしの給料もさらに下がるのは自明。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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