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大洲城

◆大洲藩。ウィキによると、藤堂高虎の所領であり、大洲城主として丹羽長秀の子で高虎の養子の藤堂高吉が在城した。慶長13年(1608年)、高虎は伊勢国津藩に転封となったが、大洲は高虎預かりの地のままだった。同年9月、淡路国洲本藩より脇坂安治が5万3千石で入部し、大洲藩が立藩した。2代安元は元和3年(1617年)、信濃国飯田藩に転封となった。同年、加藤貞泰が伯耆国米子藩より6万石で入部した。
◆加藤貞泰。ウィキによると、羽柴秀吉の家臣・加藤光泰の長男。文禄2年(1593年)8月、父・光泰(甲斐国主24万石)が朝鮮出兵において陣没したため、14歳で家督を継いで秀吉に仕え、甲斐国を領した。文禄4年(1595年)に美濃黒野4万石へ移封。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、当初石田三成に従い、その要請を受けて尾張犬山城を守備したが、弟光直を江戸の徳川家康へ人質として送り家康に忠誠を誓い、犬山城加勢衆を家康に味方するように働きかけ籠城する。東軍の指揮下で美濃大垣城にて西軍と対峙した後、関ヶ原では黒田長政・竹中重門とともに丸山烽火場附近に布陣し本戦では島津義弘率いる島津軍と戦い、本戦後は稲葉貞通と共に西軍の長束正家が守る水口岡山城攻略で功を挙げ、徳川家康より所領を安堵された。慶長15年(1610年)7月15日に2万石を加増されて伯耆米子藩6万石の藩主となる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として参戦して戦功を立て、元和3年(1617年)に伊予大洲藩に同じ6万石で移封となる。
◆櫓は残っていたらしいが、天守は失われていたが、模型や図面や古写真があり、2000年代に木造で再建された。 3月1日、公立高校の卒業式という。卒業式を終えた高校生らがちらほら。この日の夜の松山でも、たくさんの卒業生が町に繰り出していた。

2025年3月1日 大洲 記事№6500

◆朝、4時に眼が開き、また寝るものの5時半に起き、道後温泉本館へ。6時からやっており、既に6,7人くらいはいる。2回目か。2024年7月にリニューアル?したところです。あまり温度が高くはない。なのでホテルに戻って屋上の露天もある風呂に行く。こっちの方が熱めで温まる。
◆朝7時に食事。845にフロント集合、E大Y氏夫妻が、松山空港にカミサンを迎えに行ってくれており、集合場所の松山IC近くのスーパーの駐車場に。ほどなく向こうも到着し、Y氏はこっちの車に乗り込み、まず大洲の町並みをめざす。
◆デンケンではない。デンケンにしないのだそうである。そんな指定を受けなくとも、町並みを守っていく、町並みを活かしたまちづくりをやっている、というところ。町は川に沿って東西に展開する。ガイダンス施設、野菜などを売っているオバサン・イジサン、赤煉瓦の物販、なんたら横丁、そして町歩き。女性陣は購買意欲が高いですね。けっこう民泊というのか、古民家がホテルになっている。これ篠山で起業した人物が、各地の古い町並みの家屋を宿泊施設にしているようだ。朝、早めだったので、観光客はまだ少なめだった。連ドラ「おはなはん」の舞台となった城下町である。

2025年2月28日 松山へ出発

◆台湾からのUさん(殷代青銅器の研究者)、京都からのMさんを、15時に新大阪駅に出迎える。松山に向かう。帰ってきてから走行距離を見ると906kmだった。松山まで400kmくらいはあるのだろう。徳島道を選択したが、車も多くはなく、20時頃には到着した。松山ICを降り、途中のラーメン屋で晩飯。ラーメンを食べながら、明日の見学地を相談する。大洲・内子に行き、戻って松山市内を見学する方針となる。
◆道後温泉街のホテルに入る。21時頃、ふらりと道後温泉本館はじめ、アーケード街などを散策。コンビニを探し、アルコールなどを買い込み、3人で部屋のみ。22時頃、女性2人は、23時までのホテルの温泉に入るため部屋へ戻る。
【写真】散策で入ったローソンで見た、愛媛名物、100%オレンジジュースが出る蛇口。500円はちょっと高いね。300円くらいにしてほしい。

2025年3月1日 松山

◆前から設定されていた松山行き。1月下旬頃には行けないのではという状況でした。が、なんとか業務もクリアしていき、もろもろをやっつけ、楽しく参加できました。完全休養の2日間。久津川概報だけ、その前にやっつけるべきもので、ひとつ残ってしまいました。本日3月3日、科目等履修生とガイド+講座の面接が午後入っており、今日も時間はなさそうです。
【写真】デンケン内子町の、白蝋作りで財をなした上芳我家住宅の写真です。横に木蝋作りの資料館がある。本芳我家、下芳我家というのもあり、いずれも突出した大きな家屋でした。

2025年2月25日 相生で埴輪の写真

◆国公立個別学力試験のため職場に立ち入れないので、宿禰塚古墳と塚森古墳の埴輪の撮影に相生に行く。前日、機材等準備万端に整える。が、当日、アクシデント(ガラスが割れる等)を引き起こし、まあでも3時間ほど撮影した。フォトショは優れもので、切り抜きがずいぶん楽になりましたね。踏ん張って作業をして、内股が筋肉痛だ。

2025年2月21日 市文協の韓国本を搬入

◆市文協の、日本国内の報告書類は韓国の嶺南なんとかに寄贈された。残る韓国の報告書・雑誌類の受け入れを打診され、図書館と相談して受け入れることになった。2月21日はその搬入。此花区の倉庫から100箱が運び込まれた。図書登録等が進んで利用可能になるのは、しばらく先ではある。

鹿の角

◆道の駅しらまの里に行ったら、アユが、いろんな形で販売していたが、その一角で鹿の角を見つけた。3000円程度で購入できます。

2025年2月23日 紀伊田辺の備長炭資料館

◆しらまの里から、紀伊山地の道を、前に一度訪ねたことがある備長炭資料館に行く。炭の勉強をする。石炭が明治以降、石油が高度経済成長以降として、それまでは炭と薪が燃料だったわけだ。
◆資料館脇には炭窯が4基?か5基あり、2基が燃焼中であった。1窯1人に任されているらしく、2人の炭焼き職人さんと話をする。いずれも一匹オオカミのような逞しい兄ちゃんである。ウバメガシを切るところから、ぜんぶ1人でやるのだとか。次の操業のにむけ、長さをそろえる作業をしていたが、炭焼きについての質問に対応してくれた。
◆奇絶峡を見ながら田辺インターから和歌山駅に。前に行った秋津ガルテンを訪ねたが、1630で店を閉める時刻で、コーヒーを飲むことはできなかった。梅が咲き始めている。梅の収穫のための青色ネットが梅林のあるところすべてに見られる。まだ巻いた状態だが、収穫期には一面に敷き詰められるようである。
◆和歌山駅周辺で、和歌山ラーメンを食べて解散。

2025年2月23日 しらまの里

◆いよいよカミサンの実家の引き渡し。22日に残っていた処分するものの搬出が終わり、この日はあいさつ回り。笠田駅に義弟を迎えに行き、家に到着し、7~8軒ほどまわったか。マリちゃんのところでは、白菜と大根、たくあんをもって帰れと、いただく。そのあと写真を撮ったりして、12時前には今日の用務は終了する。
◆明日は、仲介の不動産業者との間での最終処理だが、これは義弟の仕事。午後、アユを乾燥させたものを購入できる、しらまの里という道の駅に向かう。むかしはどこでもシーズンになればアユの鑑札を買って、釣ってきては、保存食として乾燥させていた。それを飴煮のようにして柿の葉寿司にしたりする。この間、中世朽木氏の修論で、アユなんとか税というのが出てきて、焼魚と書いてあったが、それはたぶん違うで、と。こっちは燻製といったが、それも違っていた。そこまでのことはしない。火鉢のまわりに串にさして立て、干物にするわけだ。

和泉市史府中編の時につくったもの

◆が、だいぶほかのところの頁数が多くなっており、採用されませんでした。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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