人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
大洲城
◆加藤貞泰。ウィキによると、羽柴秀吉の家臣・加藤光泰の長男。文禄2年(1593年)8月、父・光泰(甲斐国主24万石)が朝鮮出兵において陣没したため、14歳で家督を継いで秀吉に仕え、甲斐国を領した。文禄4年(1595年)に美濃黒野4万石へ移封。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、当初石田三成に従い、その要請を受けて尾張犬山城を守備したが、弟光直を江戸の徳川家康へ人質として送り家康に忠誠を誓い、犬山城加勢衆を家康に味方するように働きかけ籠城する。東軍の指揮下で美濃大垣城にて西軍と対峙した後、関ヶ原では黒田長政・竹中重門とともに丸山烽火場附近に布陣し本戦では島津義弘率いる島津軍と戦い、本戦後は稲葉貞通と共に西軍の長束正家が守る水口岡山城攻略で功を挙げ、徳川家康より所領を安堵された。慶長15年(1610年)7月15日に2万石を加増されて伯耆米子藩6万石の藩主となる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として参戦して戦功を立て、元和3年(1617年)に伊予大洲藩に同じ6万石で移封となる。
◆櫓は残っていたらしいが、天守は失われていたが、模型や図面や古写真があり、2000年代に木造で再建された。 3月1日、公立高校の卒業式という。卒業式を終えた高校生らがちらほら。この日の夜の松山でも、たくさんの卒業生が町に繰り出していた。
2025年3月1日 大洲 記事№6500
◆朝7時に食事。845にフロント集合、E大Y氏夫妻が、松山空港にカミサンを迎えに行ってくれており、集合場所の松山IC近くのスーパーの駐車場に。ほどなく向こうも到着し、Y氏はこっちの車に乗り込み、まず大洲の町並みをめざす。
◆デンケンではない。デンケンにしないのだそうである。そんな指定を受けなくとも、町並みを守っていく、町並みを活かしたまちづくりをやっている、というところ。町は川に沿って東西に展開する。ガイダンス施設、野菜などを売っているオバサン・イジサン、赤煉瓦の物販、なんたら横丁、そして町歩き。女性陣は購買意欲が高いですね。けっこう民泊というのか、古民家がホテルになっている。これ篠山で起業した人物が、各地の古い町並みの家屋を宿泊施設にしているようだ。朝、早めだったので、観光客はまだ少なめだった。連ドラ「おはなはん」の舞台となった城下町である。
2025年2月28日 松山へ出発
◆台湾からのUさん(殷代青銅器の研究者)、京都からのMさんを、15時に新大阪駅に出迎える。松山に向かう。帰ってきてから走行距離を見ると906kmだった。松山まで400kmくらいはあるのだろう。徳島道を選択したが、車も多くはなく、20時頃には到着した。松山ICを降り、途中のラーメン屋で晩飯。ラーメンを食べながら、明日の見学地を相談する。大洲・内子に行き、戻って松山市内を見学する方針となる。
◆道後温泉街のホテルに入る。21時頃、ふらりと道後温泉本館はじめ、アーケード街などを散策。コンビニを探し、アルコールなどを買い込み、3人で部屋のみ。22時頃、女性2人は、23時までのホテルの温泉に入るため部屋へ戻る。
【写真】散策で入ったローソンで見た、愛媛名物、100%オレンジジュースが出る蛇口。500円はちょっと高いね。300円くらいにしてほしい。
【写真】散策で入ったローソンで見た、愛媛名物、100%オレンジジュースが出る蛇口。500円はちょっと高いね。300円くらいにしてほしい。
2025年2月23日 紀伊田辺の備長炭資料館
◆資料館脇には炭窯が4基?か5基あり、2基が燃焼中であった。1窯1人に任されているらしく、2人の炭焼き職人さんと話をする。いずれも一匹オオカミのような逞しい兄ちゃんである。ウバメガシを切るところから、ぜんぶ1人でやるのだとか。次
◆奇絶峡を見ながら田辺インターから和歌山駅に。前に行った秋津ガルテンを訪ねたが、1630で店を閉める時刻で、コーヒーを飲むことはできなかった。梅が咲き始めている。梅の収穫のための青色ネットが梅林のあるところすべてに見られる。まだ巻いた状態だが、収穫期には一面に敷き詰められるようである。
◆和歌山駅周辺で、和歌山ラーメンを食べて解散。
2025年2月23日 しらまの里
◆明日は、仲介の不動産業者との間での最終処理だが、これは義弟の仕
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。