人を幸せにする人になろう

この1週間を乗り切る

◆29日の日曜日、9時出勤、合同調査の一定の整理をして、ヒストリアの特集原稿を1本入れる作業をし、自分の記事原稿は仕上げねばと思いつつも終わらず、17時になったので京都に向かう。21:30まで陵墓の会議に出て、それから帰ってきた。3日間の新聞を読み、トンイの録画を見て、いま2:20か。これから明日締め切りの書類を完成させ、たぶん、ある要望書の書き直しはできずに寝るだろう。
◆明日30日月曜日は、朝に書類を提出し、研究会をやって、午後からコースガイダンスをやり、入試の打ち合わせが入り、それから大歴の委員会に出る。結構大変。
◆10月1日火曜日から授業が始まり、講義がふたつ。水曜日は、1回目だけの講義がひとつと演習、木曜日には博物館実習Ⅰが再び始動する。すべて最初が肝腎!、とはいえ、この調子だから、なかなか準備もおぼつかない。ま、でも、学期が始まると生活サイクルも整う。第1週を乗り切ればと思う。一方で、ヒストリア10月号のドタバタがしばらくは続くだろう。東京方面から、イギリスに行ったときの記事を読みたいとのリクエストも来ているが、当面は無理かもしれません。そうそう、科研の締め切りもあります。その前に、若手に対して科研対策講座で話をしろ、というのも確か4日に入ってました。オレがね~。
◆やっぱり今週をいかに乗り切るか、ということに間違いないようです。
【追記】共通教育の登録が200名強。このところ100名前後で推移してきたのになんでやねん。去年の試験が甘かった?。ままよ。

大阪市大と和泉市の合同調査

◆やっぱりイイもんだ、と改めて感じる。今年、D進学者がおらず、また、就職等で院生がかなり 抜け、現有院生が今年度の調査について心配し、春先に教員側と話し合いをもった。院生が多大な労力を傾けて取り組んでくれており、負担だがそうやってこれまでやってきたという自負もあるからこそ、年度初めに、ただちに今年はどうなるのかを心配してくれている、その姿勢に敬服する。そして話し合いをしてよかったと思う。
◆最終日の報告会は4時間におよんだが、各班で相談して事項を整理し、資料を作成し、担当を決めての報告が続く。例年の姿ではあろうが、なにか頼もしく見えた。2回生はじめ初めて参加する学生は、どういうことをするのか、あれこれ聞かされ、事前のガイダンスもあるとはいえ、よくわかっているわけではないだろう。けれども調査にはいると、一緒に文書の目録を作成したりするなかで、どういうものかを知っていく。上回生や院生とともに、きわめて真面目にやっているという当たり前のことが自覚されていく、そんな3日間になっているように思える。単に経験するというのでなく、史料や聞き取りやフィールドからわかることを探っていく姿勢や、共同して取り組むなかで自分も一員としてついて行こうとすることなど、やってる意義は大きいように思う(あんまりうまく言えませんが)。むろんカタイばかりではありません。
◆実行委員会で取り組み、教員がぐいぐい引っぱるのでなく、院生たち学生たちが、それぞれ準備し、運営し、みながそれぞれ役割をもち、その共同作業の上に進められている、そういうあり方が実にいいもんだと思う。実行委員のみなさん、ありがとう!。

伯太藩陣屋跡

◆伯太には江戸時代の途中、背後の山林地に1万石渡辺氏の陣屋が置かれた。家臣団屋敷など陣屋 内を描いた絵図が2つあり、最初の段階のものと、明治をむかえた頃のもの。図のピンク色の線が陣屋の範囲で、薄茶色で表したのが、最初の段階の絵図に描かれた屋形および家臣団屋敷。合同調査の時に宿泊している大阪市の青少年野外活動センターもその一画にあたる。
◆その次の段階には(いつ頃なのか、わかってるんだったか?)、奥まった溜め池の両側に展開していたものはなくなり、左上のかなりの面積を有する高台に全面的に広がる配置へと転換する。
◆どうなんですかね、考えてみれば、小栗街道に面する北西部の高台上の方が適当な場所であることは自明のようにも思う。敷地の提供の問題もあったのかも。
◆小栗街道に面して陣屋の入り口があり、また野外活動センターの入り口は、もとの裏門を踏襲しているように思う。その陣屋の入り口、正門にあたる附近の水路脇の土手に、瓦や陶磁器が散らばっており、いくつか採集した。
◆家臣たちは、明治以後も残っていたが、だんだんと外へ出て行き、いつといったか、どこかの時点で、もとの場所に住み続ける元武家はいなくなったということだ。昭和12年だったか、元渡辺家中により、陣屋を顕彰する石碑が建てられ、その除幕式の時の写真も見せてもらった。住宅の一画に、この石碑は残存する。小栗街道に面する正門あたり、この石碑のある地点、そして青少年野外活動センターの入り口などに、伯太藩陣屋跡の説明看板が欲しいところである。
◆明治に入った頃の下の絵図では、土塀が一周していることが明記されている。それに相当するものが、野外活動センターの正門脇などには残存し、また発掘でも検出された箇所があるという(軍が手を入れたことも考えないといけないらしい。伯太にはいま自衛隊の駐屯地があるように、のち軍隊が置かれる)。

3系統の水利の塗り分け

◆詳しくはまた整理してから、とは思います。現場中に作成した図と、現地を歩いて確認した水路 を記入したものの画像を出しておきます。
◆黄色のところが槇尾川からの取水による水がかり部で、青実線の太いやつが幹線で、下にたどっていけば黒鳥に行き着きます。ほか2つは、薄い黄緑と、薄い黄色で、それぞれ信太山の谷水によるもので、ため池を造っています。
◆7世紀の役人が、この幹線水路をどこにどう通すか考えたんだろうな、などと思いながら歩いておりました。まあ、基本的に地形を考えれば、自然に決まるプランではあります。槇尾川の遠い取水口から水をはるばる引くことで、伯太・池上が成り立っており、古代にさかのぼっても、上泉郷50戸はこれがないと成り立ちません。
【追記】狭山池や古市大溝はめちゃ有名ながら、国府河津井のみならず、昨年の和気にかかわる久保津土井も、今回の幹線水路も、信太の大野池の水路も、これらもみな7世紀の大開発として理解すべきものであると思う。むろん発掘などで年代を絞り込める事例にはならないわけだが・・・。伯太で言えば、幹線水路より低地部側にしか条里地割りが及ばないことは、両者がセットであることをはっきり示している。

伯太の合同調査終了

◆無事、終了しました。今回、伯太の水利と伯太藩陣屋跡を理解することを課題として臨みまし た。
◆水利は、初日最初の聞き取りで、水利組合の保管する絵図が出てきて、そこに3系統の水がかりが塗り分けてあり、一発で知りたいことがわかりました。和泉市史テーマ編の時、伯太の水はどこから来ているのか、グーグルアースのお世話になりながら調べ、槇尾川からだろうと考えていたのですが、基本は山の水だという意見もあり、原稿には書いていたものの、校正時に落としました。やはりそうだった!ということです。現地で水路をたどり、黒鳥の天神さんまでたどりました。前から、グーグルアースのビューで、天神さんの横に水を祭ったと思われる祠があり、水路がめぐっていて、これ意味深だ!、ここに行きたいと思っていたのですが、たどりつくことができました。
◆江戸時代の絵図で、国府河津井から枝分かれし、伯太方面にのびる水路を表現したものがあることも教えてもらいました。ただ、現地で確認したところでは、3本が枝分かれする国府河津井よりも、伯太からたどってきた水路は高さが高く、つながりが確認できませんでした。絵図を手がかりに、再度、訪問が必要です。ただやはり高さは気になります。確認できていない近世絵図に描かれた枝分かれ箇所から、ほんとうに引かれているのかもしれません(普通に考えればそうなのだが)。が、一方で、黒鳥の村中を通る天神社につながる水路も、たとえば光明池ができた時に付け替えられた、といった新しいもののようにも思えないのです。
◆江戸時代の絵図というのは、争論に際して?、黒鳥と府中の水路を中心に描かれたもので、伯太にのびる水路は付加物的な描写です。その辺もまた気になるところです。無関係な点は省略されている可能性はないのかと・・・。江戸時代の絵図を見せられれば、そうなんだろうとは思うのですが、それがすべてなんだろうかと・・・。さらに検討してみます。

あすから合同調査

◆いろんなことが片付いていませんが、明日から3日間、和泉市の調査に行ってきます。17回目で、今年は伯太町。伯太藩陣屋があったところです。1日目は水利、2日目は陣屋跡、といっても土塀くらいのようですが、見てこようと思います。
◆また眼鏡をなくし、前に使っていた100金の老眼鏡をかけていますが、あわないのか、かけているとツライです。目を悪くするのでしょうね。ないと全然、字が読めないし・・・、トホホ。

夏の出雲(15)出雲じゃなくて伯耆ですが

◆最後に妻木晩田。天気が悪く、弓ヶ浜がず~と見えるというわけにはいかなかったが。県が発掘 して整備している事務所棟の東北側の、復元建物や覆い屋施設を初めてじっくりと見る。前に家族と来たときは、真夏でとにかく暑く「はよ帰ろ」と言われ引き返した。
◆広大な史跡地で、イベントや体験学習に力を入れているが、考古学を学ぶわれわれからすると、展示をもうすこし充実できないものかと思う。ちょっと考えると、遺物の問題があるんだろうと予想は付く(県ではないということ)。それでも、やはり現地で、遺跡を見るとともに、妻木晩田の出土資料をたっぷりと見たいものである。なんとかならないものだろうか。
◆これにて2日の旅程はすべて終了。淀江から帰途につく。帰りは福崎で晩飯を食べたのだったかな、思い出せないが。こうして、駆け足での2日間が終わる。天王寺で解散する。

夏の出雲(14)和鋼博物館

◆昔、安来の方に案内いただき、とても面白かったことを記憶している。再訪してみた。前の時 は、詳しい方に、かんな流しからはじめ、ケラのこと、玉鋼のこととか、説明をしてもらった印象が強かったんだろうと思う。半分は産業史ではあるが、しかしハガネがどのようにえられるのか、一通りのことを学ぶことができる博物館である。

夏の出雲(13)次に造山

◆文化庁にいた時、ちょうど島根大が大成古墳を掘っていて、渡辺先生に説明いただいた。塩津山 から続く荒島丘陵でも、やや西北に造山古墳群は位置する。ここは、しばらく前に史跡整備をしており、麓の駐車場に大きな説明看板があるが、ややくたびれている。
◆暑い中、山をあがるのはしんどいが、上がると中海を見下ろす絶景が広がった。大成はやや離れている。造山1号、3号などがひとかたまりであり、ひととおりめぐった。
◆荒島丘陵一帯を、季節のいいときに、ひとめぐりするのは楽しいだろう。地点がいくつかに分かれているのを、どのように結びつけていくか、ということも課題か。そして出雲市のように、荒島丘陵の弥生墓や古墳群が学習できるような博物館ができると良いのに、と思う。

夏の出雲(12)安来、まず塩津山

◆なにかと島根には文化庁時代、縁があり、出雲市もそうだったが、安来市の仕事にもかかわっ た。荒島丘陵の古墳を見て回った記憶がある。まず塩津山に行く。高速道路の調査で塩津山丘陵が調査され、1号墳はオープンカットで壊されるはずだったが、トンネルで残したという(記憶が定かでありませんでした)。両側には四隅があり、四隅の突出部がなくなり方墳へ転じる過程が知られたものである。

(ネットから)荒島古墳群は島根県東端の安来市に所在し、中海に面する荒島丘陵上に位置する。既指定の造山古墳(1号墳)は古墳時代前期の大型方墳であるが、荒島丘陵には、これ以外にも弥生時代後期から古墳時代にかけての墳墓や古墳が集中するため、これらを追加指定し 「荒島古墳群」と名称を変更しようとするものである。
 荒島古墳群として指定しようとするのは、単独で所在する大成古墳、造山支群4基、塩津山支 群8基である。大成古墳は明治44年に開墾中に発見され、竪穴式石室から三角縁神獣鏡や素環頭大刀ほかが出土し、前期の大型方墳として著名である。その西側の造山支群は、既指定の1号墳のほか、同様の大型方墳である3号墳等計4基からなる。また東側の塩津山支群は、弥生時代後期の大型の四隅突出型墳丘墓で ある6号・10号墓、四隅墓の名残をとどめた古墳時代前期の方墳である1号墳等からなる。

◆トンネルの脇に説明看板があり、そこから登り口がある。そして整備された1号墳を見る。四隅の名残を残しつつ突出部がなくなり長方形墳となったもの。土器などのレプリカも配置してある。真夏で草ぼうぼう、ちょっと両側の弥生墓を探検に行く気にはなれずに引き返す。なお、仲仙寺や宮山の墳墓群は、今回パスした。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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