人を幸せにする人になろう

鋳物師のことを考えていた

◆むろん、鍋・お釜・湯(茶)釜というセットが普及することで、鉄を扱う鋳物師も隆盛する。内子を歩いていて、ひとつはこの薬研も鋳造品だな、と。商品としては限定的な需要ではあろうが、全国区。さらにはゴエモン風呂を見て、こうした風呂の普及とともに、鋳物師による大型の風呂釜製作も隆盛しただろうと考えていた。これは、近世以来としても需要増は明治期以降なのだろうか。
◆ゴエモン風呂をいまでも作っているメーカーが広島にあるのだそうです。

内子で燭台と和蠟燭を購入

◆蝋燭を売っている店があり、奥では実際に和蝋燭製作を見えるところでやっている。ちょうど塗りこめる作業が終わったところで、鉄鍋に残った木蝋をそぎ剥がす作業中でした。作業場の明かりは和蝋燭でした。

2025年3月6日 まだまだ仕事が

◆いや、ほっと息をついている場合ではない。なにかと仕事が多いね~。授業もなく、入試関係も限られた期日。3月は空いてるでしょ、というものではない。いろんな会議やらも入り、丸1日空いているという日はない。

白蝋

◆木蝋、生蝋というべきか、これを加熱して溶かし、それを水に流し込むと、なんというのか、チーズのように分離して小さな塊になるのだそうである。表面積が増え、それによって白くなるのだそうだ。
◆それを麴室のように四角い木製の盆に広げ、天日で漂白する。
◆この白蝋は、蝋燭ではなく、化粧品やら工業用やら(もう忘れた)、さまざまな用途に使われたそうである。しかし大正のはじめくらいまでだったそうだ。蝋の近代的な製法が普及し、ハゼから作る木蝋の需要がなくなる、とのこと。いまの白いローソクは何でできているんだろう。そうそう、原料となる生蝋からここで作っていたのでなく、ほかで作られたものを購入し白蠟へ加工していたということだ。
◆今残る上芳我家の一番古い建物は文久らしい。天日干しのための広い敷地がある。内子町の古い町屋で公開施設になっているのは多くはない、2つくらいか。物販とか飲食店とか、空き家になったとことの転用がかなり進み、観光地として充実している感じ、である。
【続きはまた】

内子の町並み

◆大洲は肱川をさかのぼった地点にあり、大津という意味らしい。
◆そこから東へ、次はデンケンの内子町である。くの字に折れた街道沿いの長い町並みである。ICからそっちに進むが、町並みの南側の駐車場を見逃し、先に進み、北側の、お寺の前の観光駐車場に止める。そこから歩き始める。くの字に折れた、この駐車場寄りの北半分の方が町屋がよく残り、進んでいく南側の方は明治以降の町の中心として発展し、新しい家屋に建て直されてしまっているものが多い。
◆ホテルで内子町のパンフレットを見て、木蝋資料館というのがあることを知り、面白そうだな、 と。芳我家というのがあり、本芳我家・上芳我家・下芳我家というのがあり、いずれも白蝋で財をなした家のようである。上が公開施設+資料館、本はまだ住まれているよう、下は蕎麦屋さんになっていたのだったか。
◆で、進行順で行くと、上(北側)→本→下(南側)となり、まずは上我我家。ガイドさんが、この家は、木蝋そして蝋燭作りをやっていたのではないと。そこを間違えないでほしいと。ハゼの実を絞ってできた木蝋は茶色をしている。これを日光にさらし漂白した、白蝋作りをやっていたんです、と【写真下】。

大洲城

◆大洲藩。ウィキによると、藤堂高虎の所領であり、大洲城主として丹羽長秀の子で高虎の養子の藤堂高吉が在城した。慶長13年(1608年)、高虎は伊勢国津藩に転封となったが、大洲は高虎預かりの地のままだった。同年9月、淡路国洲本藩より脇坂安治が5万3千石で入部し、大洲藩が立藩した。2代安元は元和3年(1617年)、信濃国飯田藩に転封となった。同年、加藤貞泰が伯耆国米子藩より6万石で入部した。
◆加藤貞泰。ウィキによると、羽柴秀吉の家臣・加藤光泰の長男。文禄2年(1593年)8月、父・光泰(甲斐国主24万石)が朝鮮出兵において陣没したため、14歳で家督を継いで秀吉に仕え、甲斐国を領した。文禄4年(1595年)に美濃黒野4万石へ移封。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、当初石田三成に従い、その要請を受けて尾張犬山城を守備したが、弟光直を江戸の徳川家康へ人質として送り家康に忠誠を誓い、犬山城加勢衆を家康に味方するように働きかけ籠城する。東軍の指揮下で美濃大垣城にて西軍と対峙した後、関ヶ原では黒田長政・竹中重門とともに丸山烽火場附近に布陣し本戦では島津義弘率いる島津軍と戦い、本戦後は稲葉貞通と共に西軍の長束正家が守る水口岡山城攻略で功を挙げ、徳川家康より所領を安堵された。慶長15年(1610年)7月15日に2万石を加増されて伯耆米子藩6万石の藩主となる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として参戦して戦功を立て、元和3年(1617年)に伊予大洲藩に同じ6万石で移封となる。
◆櫓は残っていたらしいが、天守は失われていたが、模型や図面や古写真があり、2000年代に木造で再建された。 3月1日、公立高校の卒業式という。卒業式を終えた高校生らがちらほら。この日の夜の松山でも、たくさんの卒業生が町に繰り出していた。

2025年3月1日 大洲 記事№6500

◆朝、4時に眼が開き、また寝るものの5時半に起き、道後温泉本館へ。6時からやっており、既に6,7人くらいはいる。2回目か。2024年7月にリニューアル?したところです。あまり温度が高くはない。なのでホテルに戻って屋上の露天もある風呂に行く。こっちの方が熱めで温まる。
◆朝7時に食事。845にフロント集合、E大Y氏夫妻が、松山空港にカミサンを迎えに行ってくれており、集合場所の松山IC近くのスーパーの駐車場に。ほどなく向こうも到着し、Y氏はこっちの車に乗り込み、まず大洲の町並みをめざす。
◆デンケンではない。デンケンにしないのだそうである。そんな指定を受けなくとも、町並みを守っていく、町並みを活かしたまちづくりをやっている、というところ。町は川に沿って東西に展開する。ガイダンス施設、野菜などを売っているオバサン・イジサン、赤煉瓦の物販、なんたら横丁、そして町歩き。女性陣は購買意欲が高いですね。けっこう民泊というのか、古民家がホテルになっている。これ篠山で起業した人物が、各地の古い町並みの家屋を宿泊施設にしているようだ。朝、早めだったので、観光客はまだ少なめだった。連ドラ「おはなはん」の舞台となった城下町である。

2025年2月28日 松山へ出発

◆台湾からのUさん(殷代青銅器の研究者)、京都からのMさんを、15時に新大阪駅に出迎える。松山に向かう。帰ってきてから走行距離を見ると906kmだった。松山まで400kmくらいはあるのだろう。徳島道を選択したが、車も多くはなく、20時頃には到着した。松山ICを降り、途中のラーメン屋で晩飯。ラーメンを食べながら、明日の見学地を相談する。大洲・内子に行き、戻って松山市内を見学する方針となる。
◆道後温泉街のホテルに入る。21時頃、ふらりと道後温泉本館はじめ、アーケード街などを散策。コンビニを探し、アルコールなどを買い込み、3人で部屋のみ。22時頃、女性2人は、23時までのホテルの温泉に入るため部屋へ戻る。
【写真】散策で入ったローソンで見た、愛媛名物、100%オレンジジュースが出る蛇口。500円はちょっと高いね。300円くらいにしてほしい。

2025年3月1日 松山

◆前から設定されていた松山行き。1月下旬頃には行けないのではという状況でした。が、なんとか業務もクリアしていき、もろもろをやっつけ、楽しく参加できました。完全休養の2日間。久津川概報だけ、その前にやっつけるべきもので、ひとつ残ってしまいました。本日3月3日、科目等履修生とガイド+講座の面接が午後入っており、今日も時間はなさそうです。
【写真】デンケン内子町の、白蝋作りで財をなした上芳我家住宅の写真です。横に木蝋作りの資料館がある。本芳我家、下芳我家というのもあり、いずれも突出した大きな家屋でした。

2025年2月25日 相生で埴輪の写真

◆国公立個別学力試験のため職場に立ち入れないので、宿禰塚古墳と塚森古墳の埴輪の撮影に相生に行く。前日、機材等準備万端に整える。が、当日、アクシデント(ガラスが割れる等)を引き起こし、まあでも3時間ほど撮影した。フォトショは優れもので、切り抜きがずいぶん楽になりましたね。踏ん張って作業をして、内股が筋肉痛だ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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