人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
雄略即位年
◆允恭没の後、安康が3年、マヨワ王に殺され、雄略がマヨワ王を殺し、イチノベを殺し即位する。それは允恭没後の数年後に過ぎない。それが10年後ろになると、ずいぶんと変わる。要するに、雄略登場の前に、キナシとイチノベの並立期間が長く続いたということになる。これが須恵器のTK208。イチノベは30年間執政王であったということになる(437~467)。
◆それと安康の問題。安康はイチノベを表しているとみている。キナシカルの在位は、允恭紀年の後半に吸収されてしまい、在位しなかったという処理がなされている。イチノベも在位したことにはなっていないが、これが安康だろう、と。安康は穴穂天皇というが、穴穂は実名でなく王宮名。なので、よく考えれば名前が不明な王なのである。実名がイチノベ、石上の穴穂宮はイチノベの王宮なんだろう。マヨワ王に殺されたとされるのは、現役の執政王イチノベがワカタケルに殺されたことを示すものとみている。菅原伏見陵などない。市野山古墳なんだから。
さらに
◆さてもうひとつ。これはなんとかさんの新書『倭の五王』を読んだ時に考えたこと。帰りの車のなかでそういえば、なんか考えたな、と。すぐに文章化しておかないと、そういう思考をしたことすら、まったく記憶から飛んでしまいますね。
◆倭の五王でいえば、反正没437と、珍の438の問題。つまり珍が献使したのは438年なのだが、古事記崩年干支では437年に死んでいるから矛盾する。437に使いを送り、中国皇帝と使者が相対したのが438年になった、という苦しいことになってしまう。これは牧尾さんの主張でいけば、反正没は実際には438だから、問題がやや解消するのかもしれません。
◆ついでながら倭国王の場合、王位継承のあと、ただちに献使しているわけではないですね。
◆新書『倭の五王』を読んで考えた1番の問題は、世子興の462のこと。これをもって世間では、その前の済すなわち允恭の没年は古事記では454とされるが、ほんとは461くらいまで在位していたと考える向きが少なくない。山尾先生がそうでした。これがどういうことか考えていた。
◆允恭在位中、437に反正が没し誉田御廟山古墳へ葬られる。そのあとイチノベオシハワケが執政王を継承する。454に允恭が死ぬ。神聖王はキナシカルが立つ。が、イチノベの方が年長であり、執政王系が巻き返そうとするわな、と。イチノベの執政王墓である市野山は230mに押さえ込まれているが、允恭が死んじまったら、イチノベやら葛城氏は当然巻き返そうとするだろうと(キナシは土師ニサンザイ300mと優位を確保してはいるが)。
◆つまりは允恭=済の2回目の献使のあと、神聖王キナシ・執政王イチノベの、どっちが中国に使いを送るか、2王並立の立場からすると、ワシやワシやという争いがあっておかしくない。そういうことが反映していると説明できないかと考えたわけです。結論は、世子興はキナシと考えるが、済(允恭)の後継者=世子とは名乗るが、倭国王とは名乗れなかった、といった事情を考えたわけです。
網野は写真
◆神聖王仁徳の即位は、応神没後の執政王である履中即位より早い。だから王統譜は応神→仁徳→履中。だけど、実際には履中は427に没した。要するに神聖王仁徳の在位期間中のなかに履中の在位がすべて含みこまれてしまう。仁徳の崩年干支をそのまま432とすると、履中の在位はなかったことになってしまう。仁徳即位後に執政王となった履中没の427をそのまま記すと、1系論では矛盾するわけです。なので没年を入れ替える操作をした。こんな風に考えているわけです。あかんかな。
◆あたりまえだけど、本人はまじめに考えているんですけどね。世間はそんなアホな、でしょうね。
網野ではないが
◆いま21:11。チューハイのロング缶が1本あいちまった。帰ってきて、
今日のできごとを書きなぐっている。もう1本買いに行こうかな。
◆書こうかどうか迷うが。古事記崩年干支は、仁徳427・履中432・反正437。履中は書紀で6年、反正5年。また、日本書紀紀年は、允恭と仁徳と応神の在位年を引き延ばし水増しするが、履中と反正は逆に割をくって在位年が短くなってしまっている。なんでそうしたのかな、と考えていた。わたしは、操作するにしても、適当でなく、全部が全部でないにせよ、理屈があるはずだと考えている。そこが解ければ、と。でも、頭が悪いのでわかりません。
◆書こうかどうか迷うというのは、こっちの理屈で苦しいことを考えている点です。仁徳と履中の古事記の没年は入れ替えられている、と(どこかに結論だけは書いた)。それを読んだ人は、屁理屈というか、苦し紛れというか、つじつまをあわせるための、ご都合主義と思うだろう。そのことを書こうかなと思う。酔った勢いですね。
◆允恭元年が433だとする。これは古事記の履中没年432と接続する。反正は、允恭元年から5年まで存在していたが、日本書紀ではこの5年はなかったことになっている。その前に書紀では5年の在位があり、あわせると10年、反正元年は428年となる。これは古事記の仁徳没年427と接続する。このへんは基本的に倉西さんが指摘していたこと。そうなると、履中→允恭、仁徳→反正という継承になってしまう。履中は執政王とみているのに、継承するのは神聖王の允恭。仁徳は神聖王とみているのに、継承するのは執政王の反正。これはわたしの論理からは矛盾し、破綻することになる。
◆書こうかどうか迷うが。古事記崩年干支は、仁徳427・履中432・反正437。履中は書紀で6年、反正5年。また、日本書紀紀年は、允恭と仁徳と応神の在位年を引き延ばし水増しするが、履中と反正は逆に割をくって在位年が短くなってしまっている。なんでそうしたのかな、と考えていた。わたしは、操作するにしても、適当でなく、全部が全部でないにせよ、理屈があるはずだと考えている。そこが解ければ、と。でも、頭が悪いのでわかりません。
◆書こうかどうか迷うというのは、こっちの理屈で苦しいことを考えている点です。仁徳と履中の古事記の没年は入れ替えられている、と(どこかに結論だけは書いた)。それを読んだ人は、屁理屈というか、苦し紛れというか、つじつまをあわせるための、ご都合主義と思うだろう。そのことを書こうかなと思う。酔った勢いですね。
◆允恭元年が433だとする。これは古事記の履中没年432と接続する。反正は、允恭元年から5年まで存在していたが、日本書紀ではこの5年はなかったことになっている。その前に書紀では5年の在位があり、あわせると10年、反正元年は428年となる。これは古事記の仁徳没年427と接続する。このへんは基本的に倉西さんが指摘していたこと。そうなると、履中→允恭、仁徳→反正という継承になってしまう。履中は執政王とみているのに、継承するのは神聖王の允恭。仁徳は神聖王とみているのに、継承するのは執政王の反正。これはわたしの論理からは矛盾し、破綻することになる。
網野とちがうが
◆応神は執政王位を簒奪したと考えているわけです。前任の執政王が倒された。が、神聖王はまだいるわけです。応神が385年に執政王になったとして、5年間は佐紀の神聖王と並立状態にあったのではないか。そして五社神古墳被葬者の没後、オオササギを神聖王に立てた。これによって完全に河内政権が樹立される。そんなことを考えていました。
◆いま中四研の論文を書いていて(4月あたまが締め切り)、五社神型前方後円墳の部分はだいたい書き終わりましたが、これらは中期前葉。これらは佐紀後半期に築造に着手、没したのは河内政権に移行した中期のはじめになったものと考えているが、まあ、ことごとく中期に入る。なので、五社神そのものも、埋葬年は390年で、応神の段階ということはありうることだろう、と。
続き
◆雄略が467から489になるんでしたっけか。とにかくも、応神君が425年までやってたら、その間は全然つじつまがあわないだろう。仁徳っていつからいつ?、履中はいつからいつ?、反正はいつからいつ?、允恭はいつからいつ?、そういう整合性がとれないだろう。そこは、応神紀に関する卓抜な研究であるが、最後はあれれとなる。390じゃなく385なんですね、5年ちゃうんですね、というくらい。応神が41年間在位したことは証明されていないのである。先に古事記崩年干支の信憑性を反正まで示したように、古事記崩年干支の応神没394のほうが、実際ではないのか。
◆SGさんが、笠井倭人さんの、書紀紀年で記事のある条を数え、それでほんとの在位年を考える研究を使う。それを見ると、古事記崩年干支とほぼ近似する。その時どっちを使いますか。日本書紀で、紀年はあっても記事のない空白年は架空で、記事のある年の足し算が実際の在位年を示すというひとつの見方、考え方は間違っていないかもしれない。だけど、SGさんは、考古学の古墳の年代と対比する倭国王の在位年として、この笠井年を使って議論する。なんでやねん。
◆古事記崩年干支を絶対視することはできない。が、これは史料にある年代の手がかり。それに対し笠井説は、一定の見識で近似的なものが導かれているが、これは日本書紀編纂のフィルターがあり、20世紀の研究者がひとつの仮説的見方で足し算をしたもの。そっちがなぜに古事記より信頼できるのか、原著論文ではどう書いてあるのだろうか。
網野つづき
◆とにかく、古事記崩年干支は、雄略の489、允恭の454、反正の437、と一定の信憑性があることが裏付けられる、ということ。考えたかったことは応神なのだが、とにかくこんなことを、声を出しながら思考し、頭の体操をしながら丹後へ向かいました。
【写真】会議の行われた会場から望む銚子山。伐採が進んで、側面がよく見える。
2024年3月15日 網野
◆で、まあ、溜まっていたものを片付けてすっきりした上で、本日、丹後にでかける。カミさんは筑波大学日帰り。互いに出張です。
◆車で行こうと思っていたが、昨日は鉄道にしようと思い、車中で読む論文を4つプリントした。が、朝調べると(前日に調べとけよ)、うまいぐあいのものが短時間でわからず、結局、車になる。朝、ガソリンを入れて、走行距離メーターをリセット、帰ってきたら、362キロでした。片道180キロあるんですね。2時間半から3時間というところ。
【写真】西都原の菜の花。
高輪築堤と旧門司駅の遺構
◆また高輪築堤の続きのところでも、いろいろ新たなことがわかってきているようです。
『歴史科学』最新号
◆いま16学協会では、ワーキングを作り、人によって異なる古墳名を、学会側として統一案を出そうとしているとのこと。やれることをやる、これを主導するTさん、頑張っています。
◆この論考で驚いたのは、イコモスの評価書には、祭祀が続けられていることも日本の文化として重要だ、といった書き方をしていたこと、これに対し日本側は、それは本質ではないと反論していた、ということ。知らずに恥ずかしい限りである。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。