人を幸せにする人になろう

あるところまでの確信

◆継体没年は527(『古事記』)でいいのではと思う。立脚点は安閑没年が古事記と日本書紀で535年で一致していること。で大塚山をあそこまで作り上げ、埴輪生産を進めるまでには、一定年限が必要だろうということ。
◆継体は無事に死んで今城塚に入り、安閑が継承する、それから墓作りを始めたであろう。そこから考えて、水谷さんは、安閑の死没の直後に、安閑が継承したものの殺害された、というのは厳しくなったと思う。
◆そういうことで、安閑即位は、531年でも534年でもやや厳しく、継体没年は527年で、安閑は8年くらいは在位していたというのがいいのではないか(ベースは古事記崩年干支はいけるという点にあるのだが)。
◆「辛亥の変」は安閑排除のクーデタなので、実は535年は辛亥ではないので、「辛亥の変」ではないと考えている。
◆で、仏教公伝を伝える記事から、欽明即位が532年になるという記事は尊重すべき。安閑が継承したが、それに対抗するように欽明を立てる動きが数年後にあり、そしてまた数年後に安閑を殺害したと思う。そういう経過が事実ではないかと。
◆問題は宣化。宣化が皇后と合葬されているのは不審である。だが宣化の即位を疑うには相応の根拠がいる。しかも、即位してなきゃ、そもそも宣化皇后陵だってないわけだ。そのへんをどう考えるかだ。宣化と欽明は近いのではという水谷説は尊重するが、それなりに検証が必要だ。やはり、安閑殺害後、息長系は宣化を立て、再びクーデタがあったということもありうるかもしれない。そうなると、やっぱり宣化未完陵が必要となる。十河さんが話してくれたように、それが五条野丸山というのも、あながち・・・とも思う。が、もうすこしこれは考えてみたい。
◆安村さんには宿題をもらったので、『ヒストリア』にまとめる際は、より緻密に未完の根拠をしっかり提示したいが(墳丘についてもしっかりまとめたい)、いずれ結論は変わらない。大塚山古墳が安閑未完陵であることは、十河論文で確定している。われわれはその先へ進むべきである。それが宣化の問題。


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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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