人を幸せにする人になろう

しつこいですが

◆大宝令。「およそ地計らむことは5尺を歩とせよ。300歩を里とせよ。」。1歩は1.78m、1里は532.5m。まず、(1)この1尺は、その前にある規定で大尺(高麗尺)である。この規定の本質は、(2)土地の計量には歩数を用いるということ。
◆(3)1里とか2里というのも、7世紀には見えず(岸)、8世紀以降らしい(町も)。(4)大宝令からしばらくした713年に大尺は廃止され小尺に統一され、本来の6尺1歩に戻す。701年雑令を713年格で言い直せば、「6尺を1歩、360歩を1里とせよ」となる(1里の長さは変わる)。
◆7世紀は、地を計るには歩数が用いられ、それは高麗尺の6尺1歩2.13mなのである。横大路上で下ツ道と中ツ道の間隔は1000歩として定められた、通り(「里」はまだない)。飛鳥寺も、百済大寺も、難波宮京も、藤原宮京も。
◆問題はどこまでが歩数で、どこからが尺数か、である。近世八尾街道と長尾街道(古代丹比道)の間は1700歩3.6㎞。条里は50m106.5m+α。藤原京条坊は250歩532.5m、難波京条坊は125歩266.3m(これ250歩かもしれませんよ)。その先、実際に道路の幅員を定めるため両側溝を掘る場合、歩数なのか、尺数なのか。藤原条坊道路では大尺45・25・20尺と尺数とされているようです(ちなみに丈も大宝令段階からなんでしょう。10尺を丈とするというのは中国的10進法なんでしょうか)。どこまでが歩数でどこからが尺数なのか・・・。
◆建物は尺数です、古墳時代の昔から。難波宮の場合は唐尺。たぶん百済大寺や山田寺も。飛鳥寺の建物は高麗尺とされるから、どこかで寺院建築は高麗尺から唐尺になっているはず。
◆難波宮京に話を戻すと、なので朝堂院の幅はなんとか歩、だが建物は唐尺。つまり、広域の範囲を設定するような土木的作業は歩数でやって大枠を決め、実際にそこに大極殿やら回廊やらを設計する建築(作事)からは尺数による。したがって端数調整はありうる。柱間を等間で割り付けていったとすると、最初の例えば回廊内の南北長の割り付けが、最終的には短くなったり長くなったりすることもあるんだろうな、と。大枠の割り付けと実際の建築設計とが、そうした関係で実施されている、ということを言いたい、論じたいわけです。
◆いずれにしても、難波宮の条坊が小尺の900尺というのは、2重に間違っている。大尺でないといけないし、尺数でなく歩数でしょ、と。125歩やと。がしかし、これが受け入れられないわけです。まあ、論文を書くしかないですね。
◆また寺院などの建築の図をあさっているが、建築屋は大尺の寸法を記入してくれるんだけど、歩数にはまったく関心をもたない、土木屋じゃないから。建物の柱位置とか基壇とか、最終的に仕上がったものを大尺でこうだという結論は、むろんそれでいいんでしょうが、わたしの関心は、その手前のところの大枠の割り付けは歩数で設定されてるんとちゃうか、というもの。具体にやってみると、たとえば寺院であれば、回廊の内側で割り付けてるんかな、という印象がある。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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