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タテツキと石塚

◆3月下旬に佐倉・歴博の研究会で共同研究の報告書の骨子案を発表せねばならない。ま、古墳時代の始e79e318e.JPGまりの話をすることになりそうだ。前に「古墳時代の暦年代」というので、膨大な資料を作り発表したが、C14の新年代のデータで弥生時代をどう考えていくかというものに、数人、古墳時代の人間が組み込まれており、庄内やら布留0あたりの話に絞った方がいいだろう。
◆で、タテツキと石塚を考えているのだが、タテツキが先行するとしてどれくらいですかね。石塚の時期も揺れがあるが・・・。へたしたら20年くらいに過ぎない?。どんなもんか。
◆タテツキは吉備の弥生後期社会の到達点ですよね。これまでにない墳墓を築造しようとしたと。が、先行する円形墓はあっても、主流は吉備でも方形墓である。後続する鯉喰も方形だ。タテツキは、吉備のなかだけでは生まれないのでは。どうやったら、あんなものが生まれるのか。大久保さん曰く、周辺諸地域の先行する墳墓要素を取り込んで造られたのではないかとのこと。ほかにはないものをということで、円!、となったのか。
◆で、纒向石塚である。現状で、タテツキが先行する。タテツキの双方の一方を取れば前方後円墳になる、石塚が説明できる。ま、それはそうだ。
◆問題はしかし解釈はいろいろありうる。(1)実は畿内の弥生社会のなかで前方後円墳に至る前史があって、そのなかで石塚が生まれた。「石塚の前あり説」(2)畿内社会が、吉備がタテツキを生み出したように、独自に畿内が石塚を創出した。「石塚創出説」(3)吉備のタテツキの影響を強く受けて畿内が造った。(4)吉備勢力が造った、ないし、東部瀬戸内勢力が造った。ともかくも、吉備の関わりをどうみるか・・・。タテツキの創出と同じように畿内で創出されたのか、吉備の直の影響を認めるのか。
◆石塚のあとは、吉備でタテツキ後が継続しないのと違って、勝山とかマキムク型前方後円墳が続き定着を見せるので、3世紀前半以降の各地でポツポツ見られる前方後円系のものは、畿内墓制の影響で(地域での展開があるにせよ)いちおう説明づけることができる(萩原も鶴尾も)
◆実におおまかな整理ですが、なので、箸墓より前かといった議論は、纒向諸墳の調査の進展によりあんまり問題ではなくなっている。現状の起点である石塚(2世紀末頃らしい)、これがどのように生まれたのか、どう脈絡づけ説明できるのかが現時点の課題だろう。
◆庄内式=纒向が2世紀後半にはさかのぼりそうなので、纒向は、倭国乱の前には形成を開始しており、それは畿内弥生後期社会のひとつの帰結と考えています。その近傍にヤマト王墓が造られるのは当たり前。だけど、それ以前、まだ大和の環濠集落が残存している段階でも、第Ⅴ様式に斉一化し銅鐸を造って周辺に働きかける主体は既にできあがっていて、その主導勢力がいたはずだ。石塚以前にも墳墓は当然あったであろう、と。吉備のように丘陵などがポツポツあるわけではなく、河内や奈良盆地の平野を生活基盤とする畿内においては、集落近傍の平地に造ってあるだろう。まだ見つかっていないだけ・・・、はっきりそう思います。
◆それが前方後円墳につながるようなものかどうかはわからないわけですが、ありうるとみておきたいと思います。

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雲楽
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男性
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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