人を幸せにする人になろう

河内政権末期

◆やっぱり岡ミサンザイ後(前の山も?)、かなりの凋落ですね。例えば仁賢、伝統からすれば、230mくらいの953c6711.JPG倭国王墓を築造しようとするはずですよね。が、仁賢陵がどれかはさておき、120mくらいになってしまう。即位して、王墓の築造に着手すると、やっぱり動員力が縮小していることは明々白々だったんでしょうかね。造りたくても造れない。いまの実力からすればこんなところ、という線が120mくらいということだったのでしょうか。
◆それはなぜかということも考えなければならない。(2)地方豪族への圧迫、(2)軍役への不満、(3)475年の漢城陥落、などが思い浮かぶが、なかなか容易ではない。
◆前にも書いたかもしれませんが、継体擁立は、たぶん武烈で断絶してとかそんなことではないでしょうね。仁賢がまだいてる間に、河内政権を見限って継体を擁立した、というのでいいんでは。オレは百済と倭の政変は連動しているとみている。示し合わせての交代劇。武寧王と継体の担ぎ出しは同根であると。隅田八幡の鏡からすると、武烈なんぞ関係なく、507年でなくその前には担ぎ出されている。要するに、ボケ山も峯が塚もぜんぶ6世紀以降ということが言えるなら、河内の倭国王とは別の担ぎ出しを証明できると思うのだが・・・。

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雲楽
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男性
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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