人を幸せにする人になろう

久津川車塚の被葬者は在地豪族か

◆向日市のUさんはそうはみていないよう。わたしは突き詰めて考えていなかったが、そうだよな、そういうことも考えとかなあかんわなと。というのも、太田茶臼山である。あれは継体の祖父のもひとつ前の、フタマタ王の次のオホホド王と考えられる。そうでなければ、継体が倭国王に担ぎ出されることや、彼が三嶋を本拠とすること、新池で埴輪を焼くことが説明できないと思うから。オホホドは三嶋を任せるために河内政権から送り込まれたと。ただし後続しないことから、オホホドの次は允恭即位により近江方面かどっかへ転封されたと。
◆継体が担ぎ出され、倭国王となり地盤のある三嶋に返り咲いた、と。そう考えると、230mだか、 確かに久津川車塚古墳よりもデカク、墓山や市野山の規模とも同等で、そのクラスとなると王族とみることも可能だろうと思うが、しかしその線引きはどこやねんと。180mやったらちゃうとか、なかなか言えないだろう。箱塚とか、車塚の前身とか、4世紀末から5世紀前葉の車塚登場以前からの脈絡の復元が難しい点はある。しかし、あれだけの階層構成を取る久津川古墳群、そして180mもの車塚、それは河内政権期に王権と深く結びついた久世の首長と言い切れるかというと、確かに???なのである。また、恵解山古墳との格差も著しい。125mと180mの格差はたいへんなものである。
◆なお県の理解についても、向日市Uさんと違った。これも和泉市史での理解をしゃべったが、違うあり方もありうるなと。つまり王権直轄地に近い性格のアガタについて、和泉では伝統勢力をつぶした上で設置し、茅渟県主氏を管掌者として登用したと理解しているわけだが、重要拠点に王族を送り込むアガタがあっていい、ということだ。アガタの意味からして確かにありうる話やなと、とても勉強になった。和泉は百舌鳥古墳群とも近く、茅渟県の経営に王族を送り込まなくても済むんだろう。しかし畿内の要地(あるいは畿内だけでなく-アガタの論文を読まないといけませんね)については、王族を送り込んで(封じて)統治させる、ということは十分考えられるのだろう。ちなみにUさんは葛野県主は恵解山とみているようである。
◆まあそんなんで、やったらやったで、なにがしか前進があるし、地域の古墳群を調査し、歴史的脈絡を考えている方々と話をすることで、いろんな示唆をいただいている。多謝。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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