人を幸せにする人になろう

峯が塚

◆主体部が発掘されたのは、奈文研にいるとき。町田さんにさそわれ何人かで行った記憶がある。【1991年だった】。おかげで、何5c9c9b16.JPGをしたわけでもないが、報告書に名前を挙げてもらい報告書もいただいた。それ以来だ。後円部側から入っていった記憶があるが、いまは北に生涯学習施設のLICができ、その向かいに、峯が塚をネタにした広大な公園として整備され、ずいぶんと様変わりしたんだろう。
◆だが、古墳は柵で囲まれ侵入不可。確かに汀の浸食がひどく、垂直壁状態で、転落防止などの安全対策を取らないとオープンにできないのかもしれない。民地時代はともかく、史跡になり公有地になると、そうなるか。ウィキによると、1987年に5haの公園として都市計画決定され、1998年に、出土品の展示館の完成をめざしていたが未完とある。公園としては竣工したものの、古墳の整備や展示館は頓挫というところだろう。発掘自体、竪穴式石室か横穴式石室か、あれ以上掘らないのか、掘るべきだ、うんぬん、ケチのつくものだったが、その後の経緯もぼんやりとは聞いた。
◆史跡の中心主体は、盗掘坑をさらうというのであれ、原則はやはり認めるべきではない。古墳の範囲や墳丘復元などの基本的データをえるための調査がちゃんとやられている上で、学術的に明確な目的がある場合に、検討の余地があるというくらいに。文化庁にいるときも、雨宮や、心合寺山や、可児長塚や、盗掘坑をさらうという名目で結局は主体部を掘ってしまう例をいっぱい見てきた。原則認めないものをやるから、中途半端になる。史跡の整備事業による調査計画を、埋文の人間がチェックする体制になかったことも要因。途中で、史跡整備の補助事業の中身をこっちでもチェックするようになった記憶がある。
◆ぜったい凍結とは思わない。が、峯が塚のごとく、手をつけたけれど、結局は、古墳も出土品も市民に公開されるところまで行っていない、そういうことになりがち。行者塚も。大風呂敷を広げず、身に合う範囲で、責任をもってやれる範囲でやればいい。そして継承していくことだ。
 

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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