人を幸せにする人になろう

思いつきですが

◆授業で都城の本を読んでいるのですが、宮の構造の変遷なんてまったくの門外漢。が、まあ平城宮を掘っていた経験からの知識くらいはある。本題はさておき、前期難波宮の内裏前殿をなぜ大極殿とよばないんでしょうか。それがわたしには理解できません。おそらく文献で大極殿という名前が出てこないからでしょうか。浄御原宮からだと。あるいは藤原だと。が、藤原大極殿に対し、前期難波宮を内裏前殿とよぶ理由はとくにない。内裏前殿→大極殿という変化を示すために、内裏前殿とよぶのかもしれないが、前期の南の部分が朝堂院なら、正殿たる内裏前殿は大極殿とよぶべきで、そのなかでのあり方の変化をたどるのが実際的である。16朝堂の成立とセットであり、それ以前の王宮から飛躍した難波宮こそ、大極殿成立の画期である。朝堂院といった名前だって記録に現れるのは後のことで、だけど平城のものを朝堂院とよびますよね。それなら内裏前殿は形態・機能から大極殿とその時点から学問的にはよび、殿舎の名前としての大極殿はこれこれが初出である、という説明の方が適している、と思う。
◆で本題。今日の履修生の報告で、平城の中央区・東区について、ふと、これ政祭分権王制と結びつくのではないか、と思ったのである。政務の場である東区に対し、(長安含元殿の話はよくわからなかったが)、中央区の4朝堂をもつあんなものを伴うもう1セットを平城で設ける理由がわからんわけです。即位や元日朝賀という儀礼の場である中央区、それはかつての国家的祭礼と統治という別機能を2人が担っていたことと、なにか通じるように思われてならない。どんなもんでしょうか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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