人を幸せにする人になろう

日置荘の埴輪の生産年代は?

◆塚口先生への献呈論集に、Yさんが河内大塚山古墳が安閑未完墓とするのは「とうてい受け入れられない」とする。ご不満があったようで、申し訳ありません。ですが、日置荘のEF群と平行したであろう須恵器窯の年代はTK10からMT85ということだが、埴輪窯と須恵器窯は別で共伴はない。論理的には、埴輪は、TK10のなかかも知れないし、MT85かもしれないし、両期間にまたがるかもしれない。TK10のなかで埴輪生産の必要性を契機として窯場となったと理解されており、これはあまり異議はなさそう。日置荘の埴輪の年代を整理したSさんは、6世紀後半の前の須恵器生産のピークがMT85までで、併設された埴輪窯での埴輪生産もそこまで続けられたとみられる、というオーソドックスな見方。それを承けて、Yさんは、TK10からMT85まで続いているのだから第3四半期までとなるので、だから欽明だ、というもの。したがって、MT85まで続いたかどうかということが、理解の分かれ目となる。Sさんの文章を読む限り確定していない、と思います。
◆五条野丸山の前方部とはぜんぜん違うと思う。ぺっちゃんこです。継体没年を527年とみることにも「本末転倒」と批判された。まあ、あの頃はそうだったかもしれません。しかし、いまはやはり古事記崩年干支論からも、隅田八幡鏡からも、531や534ではないと思います。
◆とはいえ、日置荘西町の埴輪生産が、どこまで絞り込めるか、考古学的にはやはりそこ、ではある。また、勾大兄となり即位した安閑は、相応な王墓を築いたと思うが、安閑墓は現安閑墓で、初めからあの規模のものを造営したのであろうか。辛亥の変は慎重に考えるにせよ、王権内で大伴金村が排除され、蘇我稲目が台頭する大転換があり、こうした対抗関係自身は、文献史側でもあまり否定されていないのではなかろうか。そのなかで、宣化は蘇我の娘をもらって、そっち寄りだったらしいが。

プラグイン

カレンダー

03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
8 9 10 11 12
14 15 17 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索