人を幸せにする人になろう

難波宮研10月3日

◆やはり条里制は7世紀後半なんだ、という話と、サトは領域だという話を90%、のこりで、大阪市 域を中心とする地域でこういうことがしたいという構想発表に終わりました。
◆大阪市域の発掘調査事例など、具体の話について、市の研究所で現場を知っている人にかなうわけがなく、ほとんど同じようなことを京嶋さんがやっているらしく、それは任せましょう。すこし大枠のところで、これまで歴史地理学で考えられてきたことに、なにか理解を前進させる新しいことを加えることをめざしているのと、大阪市史の付図で既にまとめられている条里について、大阪府の3000分の1地形図レベルで、もっと実情に沿った、上町台地と、その両側の低地部・平野部のイメージを図示したいこと、そこに郡界はむろんだが、なんとかサト域について特定できないか、といまのところ考えている。
◆長原遺跡を含む丹比郡条里が、磯歯津道基準から「長尾街道」基準で割り直しているという私説について、京嶋さんも紹介してくれているようだ。歴史地理学が指摘してきた北大木条里は、長原遺跡下層に一致する。5年以上前からそれは既に自分のなかではわかっていたのだが、ちょこちょこと図示するだけで、すごく明瞭になった(左図―いまやっている条里制研究の原稿で出します)。これを見ると、青の北大木条里では、赤の長原あたりの現存条里と、南北線も相違することに、遅まきながら気づく。池島福万寺の南北軸(セン線)の問題も、これで解決できるかもしれませんね。それでいけることの確認と、ではその南北軸の当初の基準はどこだったのか、それを追究すれば、アウトラインができあがりそうである。
◆話は変わりますが、三島もそうだと思っている。もともとは淀川に沿った斜行条里で、西国街道、山陽道を基準とし、郡界もその直交方向で切られた。しかしやはり8世紀を迎える頃に正方位条里にやりなおしているんだろうと、これもず~と前から思っている。これはたぶん、天坊さんが戦前に考えているのではないのかな。条里って、長い研究蓄積が正当に継承されていないのである。足利先生だって、条里109mについて、「なぜだか」と書いているのを見ると、愕然としてしまう。

プラグイン

カレンダー

09 2024/10 11
S M T W T F S
1 4
6 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索