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2月25日車塚、黄色粘質土との戦い

◆国公立大学前期入試。なにも役回りがなく、この日は1日、現場。今日は重機で拡張。
◆北区では新しい現代溝を前日に掘り、下の様子がかなり判明する。どうやら墳丘側の東半分は大穴が開いていたらしく、洪水層が厚く堆積している。そこで、面的に削り、この凹部を平面で検出して掘っていくべきなのだが、現代溝の断ち割りで答はわかっているので、東半分に正丁を投入してドカ掘り。2スコ以上の厚みを掘っていき、かなりの土量を上げた。造り出し上面にあった家形埴輪の破片が凹部に落ち込んでおり、大きな礫もかなり入り込んでいる。
◆東の墳丘斜面側からの転落石もあるのかもしれないが、造り出し上面に大穴が開けられたのは、そんな早い時期でもないと思われ、墳丘斜面は腐葉土に覆われ安定し、上からごろごろ石が落ちてくる状況でないだろうし、埴輪とからみながらの石の出方からすると、今日凹部から掘り出した拳大からそれ以上の大きさの礫は、元はすべて造り出し上面の礫敷の石だろう。
◆江戸時代の洪水層は相当なものなので、周濠を埋め尽くし、長期間水没し、微粒の粘土がメートル単位で堆積したもの。なので、造り出し上面も水流で洗われたであろう。なので、今日もちまちまと埴輪列 を含め上面の仕上げを2人にやってもらい小礫を出しているが、それもまばらであることが示すように、本来はそういうものの上に握拳大やさらに大きい、凹部に落ち込んでいたような礫で敷き詰められていたにちがいない。
◆それと、そういう状況を考えると、南区の南斜面に小礫が上面から続くように出てきていることも、全体が洗われていることからすれば納得できる。座った埴輪は残ってはいるものの、それ以外は洗い流されて周囲に流出したのであろう。

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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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