人を幸せにする人になろう

肥後は狗奴国にあらず

◆歴博の共同研究、初日の1本目は熊本県の話。
◆肥後、甕棺墓がおよぶ地域である一方、脚台付きの長胴甕をもつ。もうすこし長いスパンでの土器様式圏の形成過程はわからないが、北部九州と南部九州の接点のような地域か。生業形態がそこまで反映するものかわからないが、菊鹿盆地と玉名平野は水田稲作も早く安定的で、熊本平野部は大きく海が入り、丘陵縁辺沿に密度高くなくおよんでいるイメージ。阿蘇は畑作が中心なんであよう。
◆弥生後期にどう変化するか。遺跡の消長表からすると、中期とあまりかわらない前半期に対し、後半になると短期間の環壕集落も増えており、社会の変化がうかがえる。鍜冶遺構もかなりあり、鉄器化にともなう社会変化は、後期の後半に地域的統合への動きも始まるのかも知れない。とはいえ、どっちかというと、古墳時代早期のことのようにも思われる。とくに阿蘇や豊後竹田あたりの鉄族が気にかかる。厳密にいうといつなのか、後期前半なのか、後半なのか、古墳早期くらいでの消長を知りたいものである。なぜに阿蘇に鍜冶遺構があり、多量の鉄鏃が残されているのか。阿蘇での弥生集落のありようを加味して考えなければならない。とくにそれまであまり集落がなかったのに増えるとか、そうでなくともそれ以前の集落に対し、後期に入って新たな様相の集落が現れてくるとか、そういうなかで鉄鏃を意味づける必要がある。
◆ともかくも、中期から後期の変化があるのではあろうが、緩やかなイメージがある。吉野ヶ里と同様に方保田東原なども後期また終末期まで存続しており、地域内の社会も変化をしつつあるところに、布留0がやってくる、といった様相である。そこで、弥生集落がすべて断絶している。布留0のインパクトはすごそう。倭国ができあがり、奴国や伊都国も倭国の枠組みに入るなかで、3世紀前半のなかに社会の大きな変化が起こる。そして布留1の時期には脚台も取れ、布留式化が急速に進む。そして宇土半島基部にまず前方後円墳が現れる。「倭国に入らんかね~」という役割を与えられているんだろう。布留0とか布留1とか、まんべんなくなのか、やはり布留1に前方後円墳がまっさきに現れる宇土半島基部あたりを起点に広がるのか、といったことも興味がありますね。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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