人を幸せにする人になろう

2018年7月15日(日)、五條市賀名生(あのう)

◆この日は出勤せず和歌山に行く。施設に入っている岳父も一時的に戻っていたので。午後のある 程度までおり、それから24号線を賀名生に向かう。16:30くらいに資料館になんとかたどりつき、17:00まで展示を見学した。以下、ウィキ。

 1347年(正平2年、北朝の貞和3年)正月に楠木正行が四条畷で戦死したのち、南朝では北朝方(室町幕府、足利軍)の来襲を防ぎ得ないのを知り、吉野を引き払い穴生に移った(皇居は総福寺であろうという)。1348年(正平3年、北朝の貞和4年)、高師直率いる足利軍が吉野に来襲し、行宮、社寺などを焼き払い帰った。
 1351年(正平6年、北朝の観応2年)、室町幕府の内紛(観応の擾乱)により、足利尊氏が一時的に南朝に降伏し、一旦南朝に統一された(正平一統)。しかし具体的な和睦の条件は折り合わなかった。
 1352年(正平7年、北朝の観応3年)に後村上天皇は北征軍を興し、一度は住吉から山城の男山(京都府八幡市)に移った。尊氏の子である室町幕府第2代将軍足利義詮は正平一統を破棄し、再び北朝を擁立した。5月、北征軍は京都を回復することができずに賀名生に帰ったが、この時北朝方の皇族(光厳上皇、崇光上皇、直仁親王)を拉致し、さらに北朝の三種の神器(南朝は偽器と主張)を押収した。北朝方は、出家を予定していた弥仁親王を後光厳天皇として即位させた。
 1354年(正平9年、北朝の文和3年)10月に河内天野山金剛寺(大阪府河内長野市)に、6年後の1359年(正平14年、北朝の延文4年/応安元年)には河内観心寺(河内長野市)に移り、さらに翌年住吉に移って住吉宮の祠宮津守の館を行宮とし1368年(正平23年、北朝の貞治7年)ここで死去した。
 のち長慶天皇を経て後亀山天皇が践祚するに及び、1373年(文中2年、北朝の応安6年)8月よりまた賀名生を行宮とし以後1392年(元中9年、北朝の明徳3年)京都に帰って神器を後小松天皇に伝えるまで20年間、賀名生は南朝の行宮であった。

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雲楽
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男性
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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