人を幸せにする人になろう

2018年9月15日(土曜日)新居浜に行く

◆前から別子銅山に行こういう話になってはいたが、秋雨前線が停滞しており、北陸方面とかも考 えるが、天気予報では南の方が晴れ気味ということで、当初の予定通り新居浜に向かうことにする。とはいえ、カミさんが院試なので、寝屋川に行き、旧ねやじゅの風呂に行く。サウナに入ると汗ぼたぼたで、もっと絞ってもいいのだが適当な範囲とし、まんがを読んで、連絡を待つ。
◆終わったとの連絡が来たのが12時過ぎで、出発は12:30前だった。
◆神戸市内がやはり渋滞だったが、まあ順調に、淡路、鳴門、徳島道。上板SAで徳島ラーメンを 食べる。16:30新居浜着。
◆まずは山裾(上原というところ)の広瀬記念館に行く(17:30まで)。記念館と旧広瀬邸入館で520円のところ、あかがねミュージアムの入館もセットで500円と、20円安く3か所に入れる。別子銅山の図録700円。団体バスが到着し、ぞろぞろ人が展示室に入っていったので、敷地内の重文の屋敷を先に見る。台所に製茶の機械がならぶ。そのあと記念館に戻り、展示をひととおり見る。

◆広瀬宰平については以下ウィキ。住友を任され、大阪の経済界としても重要な人物である。

 広瀬宰平は、近江国野洲郡八夫村(現滋賀県野洲市)の旧家・北脇家の次男として生まれた。幼名・駒之助、維新後は宰平と改名した。9歳のとき、別子銅山の支配人をしていた叔父の北脇治右衛門に連れられて別子に移り、11歳のときに別子銅山に奉公にあがった。1855年、家長・住友吉左衛門の推薦で、元住友江戸店の支配方であった伊予国新居郡金子村久保田(現・新居浜市)の広瀬義右衛門の養子となる。1865年、別子銅山の近代化を訴えた宰平は、家長により別子銅山の総支配人に抜擢される。住友としては異例の人事であった。明治維新の際には別子銅山を接収しようとした新政府代表の川田小一郎に対し「銅山経営を経験のない者に任せると、利益なく国家の大損失となる」と、経営を引き続き住友に任せるよう説得しこれを認めさせた。さらにフランスの技師ラロックを招いて指導を仰ぎ、部下をフランスに留学させて西洋技術を学ばせ、近代化を達成。たった四年で鉄道を開通させた。こうして住友の基盤を守り発展させ、その後は別子銅山で製鉄も始めたが、公害問題が生じ、農民の不満を募らせた。
 また、宰平の住友への貢献は、住友の家政改革を断行したことでもある。1877年(明治10年)2月、住友家第十二代家長・吉左衛門友親は、病気のため宰平を総理代人に指名した。総理代人は「商法上一切の事務を総轄して、数多雇人を統御する」権限をもつとされたから、宰平は住友家の経営権限を委譲されたことになった。同時にそれは宰平の独裁制が強まったことを意味するものであった。しかし、独裁的な権限を手中にするようになった宰平に対しては、住友内部から批判の声が起こるようになった。その底流には別子の近代化はさておき、宰平のリーダーシップにより展開した事業の成績が芳しくなかったこと、それに対して内部から強かった銀行設立の要望に広瀬がかたくなであったことなど事業戦略上の批判があった。また重任局での合議制を骨抜きにし、広瀬独裁体制を追認するよう家法改革を断行したことに対する不満もあった。こうした厳しい局面を迎えて、宰平は自ら退身する決意を固め辞表を提出し、1894年(明治27年)11月、総理人を辞任した。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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